遠い日

  毎日がほぼ日曜日になって久しく、時間に追われず、お日様の歩みを味わいながら日々を過ごします。70代が、(生きる社会情勢や多過ぎる天災や人災は別として、)こんなにも穏やかで静かに過ごせるとは、働いているときには思いませんでした。

 子どもの頃、歳をとったらどんな風に暮らそうかとあれこれ考えたものでした。当時、私も私の周りにいる人もまだ幼く、または若く、元気で、70歳を過ぎた人はほとんどおらず、歳をとるということはよくわかっておりませんでした。歳をとったら身体が弱って、若い人たちのように歩くことはできないだろうということくらいしか思いが及ばず、その心のことまでは想像がいたりませんでした。同時に、歳をとって若い頃のように身体が動かなくなる、これは当たり前のことで仕方がないと思っておりました。若いときのように身体が動かなくなったとき、それをどのように受けとめるのか、受けとめきれるのかということには、まったく思いが及ばなかったのです。

 当時思い描いていた一枚の絵があります。歳をとったら、山の麓の一軒家に住もう。晴れた日には縁側で日向ぼっこをしながら猫を膝に乗せて遊ぼう。近所の人が訪ねてくれたら、縁側かお茶の間でお茶を飲みながらとめどなく話をしたり、一緒に編物をしたりしよう。一人の時は雑巾でも縫いながら、いつのまにか居眠りをしているかもしれない。元気があったら杖をついて散歩に出て、畑の畦道を(もしかするとモタモタと、あるいはヨタヨタと)歩いて、行き会った近所の人と立ち話をして、などなど。

 雨や雪の日には暖炉の側の揺椅子のなかで冬なら毛布にくるまって、絵本や子どもの頃に読んだ本を読みなおそう。もしかして自分で作った世界に一冊しかない絵本を眺めているかもしれない。外は土砂降りでも、大雪でも、家の中は暖かく居心地がいい。本を開いたまま、いつの間にかウツラウツラ居眠りを始め、目が覚めてみるとそろそろ夜明け。嵐も止んで静かな大気の中で、チチチチと小鳥が鳴き始め・・・。

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揺り椅子に揺られているうちに、眼鏡がずり落ち、コックリ、コックリ居眠りが出てきます。外は闇の中、風も吹いているようです。でも部屋の中は暖かく、心もホカホカ。明日が晴れて暖かくなったら、きっと外に出て、散歩をしてみましょう。

 こんなイメージが長らく心の中にあって、ある意味、歳を重ねることに対してそれほど否定的な思いはありませんでした。呑気なものでした。 実際、高齢者になり、後期高齢者に仲間入りをする歳になってみますと、思い通りには行かないということがよくわかります。家人の祖母や親と暮らし、見送ってみますと、歳を重ね、日々の営みを続けるということは、ただ老いていくということでは済まされないということがしみじみわかってきます。そして今、実家や家人の祖母や両親の辿った道を今私が辿っているのだということがよくわかります。

 以前、恩師が「歳をとったら枯れていい老人になるというのは幻想です。歳をとると若いときには隠れていた性根の悪さが顔を出して老醜を晒すのですよ。若いときにできなかった良い志が老齢になったらできるということはありません。老人になって善い人でいたかったら若いときから自制できるよう自分を訓練することです」とおっしゃいました。

 時々その言葉を思い出します。若いときには逸る気持ちも強かったものですが、自身を制する気持ちも強かったと思います。歳を重ねるにつれて、身体にくる老いは、精神にも影響を与え、思いはあっても身体が言うことをきかないということが増えていきます。若いときには半日もあればできたものが、今では二、三日もかかることがあります。根が続かなくなったのです。歳をとるというのはこういうことだったのだとしみじみ思います。そして、老いるということへの思いに対して若いときの私は、理解できていなかったにせよ、共感がなさ過ぎました。 祖父母や親たちが「55歳の坂を越えると」、「60歳を過ぎると」、「75歳を過ぎると」等々、折に触れて漏らした言葉に対して、今思えば、薄情でした。実感が湧かなかったのです。きっと、「その時にならないとわからないことがある、そうなったときにわかる」と思ったことでしょう。もう少し言いようがあったのに、と胸が痛みます。

 過ぎ去った時を返すことは叶いません。遠い日々を思えば複雑ではありますが、善いも悪いも含めて、若いときには見えなかったものが、この年になって見えたことは、遅ればせながらとはいえ、よかったと思います。このまま枯渇していくのか、それも悪くないとは思います。でも、かつての熱い思いがすっかり消え去ったわけではないようです。時に、居眠りから覚める瞬間のように、心の残り火が激しく燃え上がります。おお、まだ、私の魂はこんなにも激しく燃えることができると、狼狽えつつも嬉しく思います。

 遠い日の夢はまだ先のようです。たいして気を遣ってもやらなかったのに、時々小さな故障はあるものの、この身体も元気に頑張ってくれています。遠い夢に満ちた日々を思いつつ、まだ暫しの間、(できるだけ)毅然と、颯爽と、のびやかに、心に燃える炎を絶やすことなく生きていこうと思うのです。一刀両断で何かを言えるほど、この世のことは事程左様に簡単ではありませんが、これまでの年月で得た(僅かながらの)思慮分別を道連れに、しっかり見、聞き、考え・・・と、改めて思ったことでした。