コマーシャル

退職してから、古い映画やかつて流行した連続ドラマなど、TVを見る時間ができました。結構楽しんでいます。ただ、民放局でコマーシャルが多いのは我慢するとして、繰り返し放映されるたびに腑に落ちない、というより不愉快になってしまうコマーシャルがあります。大人げないと思いつつも、一言いいたくなってしまいました。センスのあるなしではなく、また、食事時にこの宣伝かとか、ここまで露骨に言わなくてもとか、思う製薬会社を中心とするのコマーシャルは置くとしても。 

その1.

娘「お母さん、このごろ物忘れとか鍵のかけ忘れとか多くない?」

母「だって年だもの・・・」

娘「それって・・・」

と続き、中年男性がご高説を説き、よい製品を勧める。

  セリフは正確でないかもしれませんが。これを聞くたびに、何という物言いだろうと思うのです。上から目線の娘の物言いに母親は「そうなの・・・」風に受け止める。知ったかぶり風の心ない言葉を平然と言ってのける娘にも、唯々諾々とその物言いを受け入れる母親にも、私は不愉快になるのです。親子の間でこんな会話を交わさせようとしている人たちはどんな人たちなのでしょう。愚かで自分の意見を持たない母親と物の言い方も知らない娘。ぞんざいでがさつな物言いと、遠慮のいらない親しみ方は違うでしょう、と言いたくなるのです。コマーシャルを作っている人はどんな自分育てをやってきた人なのだろうと思います。私はこの製品は絶対買わない。 

 

その2.

娘「お母さんその髪で行くの?それに少し匂うわよ・・・」

母「シャンプーしなかったの・・・」

すると娘がすぐにできる何かを勧める。

 これもその1の別バージョンかもしれません。身仕舞の綺麗な人、なりふり構わない人、いろいろいます。馬子にも衣裳といいますし、気を使わないより使った方がいいかもしれません。ただそれは、自分のためだけというより、これから会う人への気遣いもあるでしょう。結婚式に着飾るのは自分を見せびらかすというより、また式だからというだけでなく、結婚する当人やその周辺の方々への祝意の表れ、華やかな宴席への心尽くしでもありましょう。でも、基本的に、髪形がどうであれ、着ているものがどうであれ、その人の魂の核とは必ずしも一致しないことがあります。着るものなど全く構わない気のいい友人がいました。身なりや見栄えなど気にかけず、恥ずかしがりもせず、悠々としていました。亡くなった今もその友人が好きです。

 何よりも、人に(母親だろうが友人だろうが)ものを言うのにこの言い方はなんだろうと思うのです。髪が匂うより、髪がぺちゃんこであるより、この娘の心の貧しさと軽薄さに溜息が出てきます。一見、親思いの娘ですが、もし母親を大事に思っているなら別の言い方があるでしょう、と思うのです。ものの言い方がわからないのだと思います。それを、やはり、唯々諾々と受け入れる母親にも腹が立つのです。だいぶ以前、友人の子供が母親を「バカ!」と言ったので吃驚しました。友人は私に遠慮して注意をしませんでした。思わず、「子供が親をバカと言った時、バカと言われた親をバカだと思うより、この子供はなんておバカなんだろうと思うのよ。本当は別のこと言いたかったんじゃないの」と聞いたことがありました。人前で使う言葉をいつどこで学ぶか、日本語教育は…と思いいたったところで、我身を思えば他人様の言葉などについてはとても言えない、と思いいたり、口を噤む次第です。

 

その3.

娘「お母さん、老けたわね。」

 これもその2の別バージョンでしょうか。歳を取って老けて何が悪いの!と思っています。年とって老け顔になるのはいけませんか。年相応に皺も増え、背も曲がり、よたよた歩くのは自然とはいわないのでしょうか。若見えと、若々しいのとは一緒でしょうか。人によって歳を重ねても若々しい人、歳とともに姿も変わっていく人、年と共に歩む姿形はいろいろあって当然ではないかと思うのです。

 以前、高齢の方にアナウンサーが質問する時に、「おじいちゃん/おばあちゃん」と呼びかけ、馴れ馴れしい口の利き方をしているのを見て不愉快になったものでした。「あなたのおじいちゃん/おばあちゃんでもないのに、その呼び方はないでしょう。名字で呼んでくださいな、」と心で思ったものでした。アナウンサーの皆さんはおそらく立派な人たちだったのでしょうが、丁寧に敬語を遣って受け答えをしている皺くちゃで日に焼けた老人の方が、ずっと、ずっと、人として立派に見えました。逆に、アナウンサーたちの態度は傲慢に見え、彼らの軽薄さが透けて見えてきたものでした。もしアナウンサーにそういう物言いをするように指導している人が背後にいるならば、考えを改めた方がいいと思います。 

 

その4

家を改築・建築するときの宣伝です。「娘は明るさにこだわった。妻はキッチンにこだわった。私は見えないところにこだわった。」

 これは見えないところにスポンサーである会社の特別の工夫があり、売りがあるという趣旨の宣伝で、そのこと自体に全く文句はありません。自信作なら胸を張って宣伝すればいいと思います。また、これを父親に言わせていることそのものに文句があるのでもありません。このコマーシャルに不愉快になるのは、娘や妻に対する夫(男ひいてはコマーシャルを作った人たち)の傲慢を感じるからなのです。エッラソウに(‼)聞こえるのです。いいお家を建てて自慢したいだけなのかもしれません。でもそれなら「娘は明るさにこだわった。妻はキッチンにこだわった。」は余計でしょう。明るさにこだわる娘ばかりではない。キッチンにこだわるどころか、気にもしない妻もいるでしょう。私の知り合いに台所仕事が嫌いな主婦がいました。家を建て替えたとき、みなが建築家だという彼女の兄弟が設計した台所は、キッチンにこだわる妻なら、おそらくひどくがっかりするようなものでした。

 

娘は、妻は、という括り方は、是非とも、やめていただきたいと思います。男、夫にもいろいろあるように、女、子供もいろいろいるのです。当たり前ですが。このようなコマーシャルに出会うと、世はなべて、老人や娘や妻の多くは愚かで物をよく考えていない者と思っているのではないか、と感じさせられます。こうしたコマーシャルには、弱い立場(とその人たちが勝手に思い込んでいる)の者への見下しや決めつけが見えてきます。(ご自分はどれほど偉いのでしょうか。)

 南方熊楠はイギリスに行ったばかりのころ、誰に対しても最上級の敬語で話すよう心掛けた、と聞いたことがあります。きちんとした言葉で話せる人に対して人はそのように応じてくれる、と師匠筋からの助言があったと聞いたように思います。このエピソードを知ったとき、私もこれは見習いたいと思いました。日本語でも外国語でも、流暢に淀みなく話せることが重要なのではなく、可能な範囲できちんとした言葉と言い方で話せば、しっかり、誠実に耳を傾けていただけると信じてきました。少なくとも、今まではほぼそうでした。特に外国の学会では、拙い英語をきちんと聞いていただき、質問もしていただき。今思えば、耳を傾けてくださった方々の人となり、心映えが立派だったのですね。

 一言で言えば、コマーシャルを見る人に対するしかるべき敬意と理解が、コマーシャルを作る側にもほしいのです。老人(女・子供)に勧める製品なのに、老人(女・子供)を馬鹿にしているように受けとめられかねないコマーシャルはどんなものでしょうか。コマーシャルは現在の世相の一端でしかないのかもしれません。私が感じることがすべての人の感性でないことはよく承知しています。誰もがそう感じているとは思いません。ですが…なのです。賢い友人はコマーシャルというのはそういうものなのよ、と取り合いませんでした。というわけで、今日も取り合ってしまった私自身に、我ながらちょっと自己嫌悪です。しばし、コマーシャルは忘れて朝のお散歩で切り替えた方がいいかもしれません。