母のこと

「年の初めの・・・」を読んだ幼馴染みから「あなたは父子家庭だったの」と、お叱りをいただきました。確かに! それで絵の方に一言付け加えました。が、今日は母の誕生日でもありますので、言い訳ついでに、少し母を思い出し、ごめんなさい、と言わねばと思いました。 

物心ついた時から、母がゆっくり腰をおろしてお茶を飲んだり、世間話をしたり、のんびりしているところを見たことがありません。始終立ち働いていました。また、丈夫だったからできたのでしょうが、私が起きた時にはもう起きて仕事をしていましたし、私が寝る時にもまだ起きて、アイロンをかけたり、縫物をしたりしていました。一方、父は庭を掃いて盆栽の世話をしている時以外は、新聞や本を読み、将棋を指し、のんびりしているように見えました。確かに外回りすべてが父の役割で、怠け者というわけではなかったようですが、機嫌が良く、楽天的で、面白いことをいっぱい言って人を笑わせる、家で見る父は、働き者には見えませんでした。子どもたちが「お父さんはサボっている」と母に訴えますと、「若い時には、他人の何倍も働いたのよ、それに働きすぎると頭が痛くなるの」と言っておりました。そして、本当に頭が痛くなるのです。 

母の片腕は5歳年上の姉でした。私たちは四人姉妹で、姉を除けば二つ違いの三人で、身体は下に行くほど大きいので、ずっと、一人と束で三人、という感じでした。総領の姉は、母をよく手伝い、働き、姉自身も私たち三人と一緒に遊ぶということは滅多にありませんでした。姉には姉の友達がいましたし。私たち三人は大体一緒でした。ごくごく偶に、母が炬燵で編物をし、回りを私たち三人で囲んでお茶を飲んだこともありました。裁縫が上手で、人形を作って着物を縫い上げて着せてくれたこともありました。たまには百人一首の読み手になってくれたこともありました。和歌は、特に百人一首万葉集古今和歌集をはじめ、良く知っていました。ただ、いつも忙しく、子どもと一緒にのんびり炬燵で・・・というようなことは少なく、あまり覚えがありません。とにかくよく働く女性でした。 

「働くのが好きだから働いているわけではないですよ」と言っていましたが、じっと座っていると落ちつかなくなるようでした。気心の知れた人はともかく、人前に出たり、知らない人と打ち解けて話したり、というのは苦手だったようです。昔のことですから、電話1本で多くのものは届けてもらえますので、街内以外、滅多に外にも出ませんでした。出かけるのは娘たちの学校の母の会や教員との面接だけでした。日光東照宮までは家から車ですぐですが、尋常小学校の時に行ったとは言っていましたが、何回も行ってはいなかったようです。それではというので、末の妹と私の三人連れで東照宮を回り、鬼怒川に泊まりがけで出かけました。これを機会にと何度も誘いましたが、その後は腰を上げず、これは母との最初で最後の旅でした。 

とはいえ、ただおとなしいだけの女性ではありませんでした。普段は自分の意見を人前で言いませんが、一家の大事、特に子どもの大事になると、一番頼りになり、しっかり支えてくれました。我家は、一見、亭主関白の家庭に見えるのですが、(またどこの亭主関白家庭も実はそうなのかも知れませんが、)大体は父の考えで物事は決まるものの、ひとたび母が「それはできません」「それは駄目です」と言うと、物事はそこまで。先には一歩も進みません。 

母は諺や金言を引いて何かを言ったものでした。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とか「物はなくなるけれど、教育は身についてなくならない」とか。諺抜きで言った母の言葉で今でも覚えているのは、「良い結婚をすれば喜びは二倍かも知れないけれど、とんでもない結婚をしたら苦しみは二倍ではすまない。結婚はしてもしなくてもいいから、ともかくよく考えてからにしなさい」でした。続いて、「だから手に職をつけて一生働きなさい。結婚しても一家の大黒柱がいなくなって、子どもに教育を受けさせられないなんてことにならないように。」と言ったものでした。 

父と母の掛け合いは面白かったです。「芸は身を助ける」と母が言いますと、「芸は身を助けるほどの辛さかな、」と父が続けます。「寝るより楽のあらばこそ、」と母が言いますと、「起きて働くバカもいる」と父が茶々を入れます。傍目からは、正反対の性格で、いかにも仲のいい夫婦という感じではありませんでしたが、思えば非常にいい組み合わせだったのではないかという気がします。 

父が、今日は健診だから、と言って出かけたまま入院となり、4ヶ月後に亡くなった時、完全看護ですから、病院で父をお世話する付添婦はいたのですが、さらに母は病室に簡易ベッドを持ち込み、最後の3ヶ月間看病しました。(今なら許可されないと思いますが。)その途中、母は身体に異変を感じたのですが、父を看取り、七七日を済ませてから入院しました。手術はせず放射線治療ということになりました。寝ているばかりで何もせずに時を過ごした日々は、一生の間でこれが初めてだったのではないでしょうか。ありがたいことに無事退院し、恐らくは放射線治療の後遺症で足腰が立たなくなり、寝たきりになりました。が、それから13年、新聞を読み、ラジオを聴き、本を読んで過ごしました。 

と言うわけで、子ども時代の我家のお正月の団欒に、母も(姉も)出てこなかったのです。大晦日あたりからお正月にかけて、父と三人の子供たちは、忙しい母と姉の邪魔にならないよう、炬燵で火の番、猫の相手をしていたのでした。今思えば、母にも姉にも、なんとも悪いことをしました。心からごめんなさい、です。