違和感・愚痴

 年を取った証拠というか、現在について行けなくなった者のしょうもない愚痴なのですが。

 まずは、言葉の頭だけで短縮されたアルファベットまたは片仮名の単語。若いときからこの手の単語に戸惑っていたので、これは年のせいではないかもしれません。日本語の中に突如この短縮形の単語が入ると、時々は前後関係で推測つきます。辞書を見れば説明のあるものもあります。時々、その単語の意味がわからず、話の内容そのものが把握できなくなることがあります。これは年のせいというより、鈍い、あるいはセンスがないのですね。同じ年代の方が、ごく自然に「あけおめ」とか「とりせつ」などなど、上手につかっていらっしゃいましたから。特に若い人たちの間でよく使われる流行語も、上手に使っていらっしゃる同世代の友人もおいでなので、これも私の受信器官の感度の問題なのでしょう。

 ニュースが、かつては、どうであったかをかなり忘れてはいるのですが。現在のニュース番組で「あれ」と思うのは、仲間内で盛り上がって、報道する相手に伝える姿勢が取り残されていると感じるときです。「そんなの、あとで、仲間内ですれば・・・」と言いたくなるのです。あの人たちは本当に心から楽しくあの台詞を語っているのでしょうか。それを聞いて視聴者も楽しいと思っていると信じているのでしょうか。

 かつての報道番組で気になっていたのは、高齢の方にインタビューするときに、親しげに、「おばあちゃん」「おじいちゃん」と呼びかけていることでした。赤の他人に、親しくもない人から「おばあちゃん」などと呼びかけられることの居心地の悪さを、呼びかける人は感じないのだろうか、と思ったものでした。高齢者だけでなく、幼い子供たちにも、かなり雑な物言いで話しかけていました。雑な言い方は親しさを表わしているのかもしれませんが、雑な言い方に限度を超えた馴れ馴れしさを感じることもあります。高齢者や子供を馬鹿にしているとまでは言いませんが。そうした態度にも居心地の悪さを感じたものでした。

 近頃気になっているのは報道の順序というか、一つのニュースから別のニュースに移るときの変化の早さです。最近は、戦争や自然災害や痛ましい事件や、様々の胸の痛む報道が流れます。ところが、次のニュースが明るいニュースの場合、キャスターたちは、これまでのニュースは全くなかったことのように捨て去り、ニコニコ顔で、明るい声で、朗らかに楽しいニュースを伝えるのです。こちらは、前のニュースに心が引きずられて、明るい楽しい話題を受け入れる心の用意がありません。大きな違和感を覚えてしまうのです。仕事だから仕方がないのでしょうが、心の切り替えに鈍い私は次第にニュース番組から遠ざかり、ワールドニュ-スや新聞で読むようになってきました。

 かつて、しょうもない愚痴を零したとき、友人が「しょうのないことは言ってもしょうがないから、私、言わないのよねぇ」と慰めてくれました。「口元には小さな黒子が二つあるから、私、愚痴言うのよねぇ」と笑ったものでした。

 そんな具合で、今日もしょうのない愚痴です。