歌のことば

 退職して、好きなように過ごせる時間が多くなりました。出かけることも少ないので、結果的に規則正しい生活です。日が長くなると朝は4時頃起き、夜は9時頃床につきます。夏も冬も5時には起きますが、夏になり、夜明けが早くなると、お日様と一緒に起きます。窓を開けて空気を入れ換えて、一日の始まりです。
 たいていは本を読んでいるうちにいつの間にか寝てしまいます。夜中の2時か3時ごろに目が覚めます。再び本を読みながら「ラジオ深夜便」を聞き流します。「ラジオ深夜便」が気に入っている理由の一つは、アナウンサーが穏やかに、ゆっくりめに、静かに話してくれることです。歌も古いものですと、日本語が美しいのです。聞いているうちにいつの間にか寝入って気がつけば5時です。なぜか目が覚めるのはいつも2時か3時頃です。きっと丁度いい睡眠時間がとれているのでしょう。
 「ラジオ深夜便」の2時から4時までは音楽番組で、3時からは日本の歌です。かつては昔懐かしい童謡や歌謡曲でしたが、最近は新しい歌もながれます。番組当初のころから聴いておりますから、いつのまにか、歌は世に連れ、世は歌に連れといわれるように、歌を通して世相の一端を感じることもあります。その一つは日本語の発音でしょうか。18年過ごした郷里の言葉が骨の髄まで染みついている私は、かつてのNHKのアナウンサーが話す標準語を話すことができません。ですから、日本語の発音についてあれこれ言う資格はまったくないのですが。
 というのは、歌手の歌う「が」行の発音が聴いていて気になるのです。きちんと勉強をしたわけではありませんから間違えているかもしれませんが、語頭に「が」行がくるとき以外、「はがき」、「行儀」、「右側」など、は鼻濁音で発音すると思っていました。東京に来てから、必ずしも「が」行の発音はこちらの知っていた規則通りではないということに気がつきました。それにしても、ここ20年くらいの歌を聴いておりますと、鼻濁音がどんどん消えていく傾向があるような気がします。
 戦前、戦後まもなくの頃の歌の場合、鼻濁音が抜けることはほぼないように感じます。最近の歌も、演歌や歌謡曲系の歌は鼻濁音が抜けていないことが多いです。鼻濁音が抜けるのは、ポップス(これも時代遅れの言い方でしょうか)といわれるジャンルの歌に多いような気がします。年齢的に言うと若い人に多いように思います。この傾向が続けばそのうちには鼻濁音は消失する運命にあるのかもしれません。
 英語の発音も、7世紀頃の英語と現代の英語ではかなり変わってきています。5世紀から12世紀頃までの古期英語は1166年のノルマン人征服の後、フランス語の影響が強く受けて、単語もですが、発音も変わっていきます。これが中期英語です。それでも中期英語の時代まで、英語はアルファベットの綴りをローマ字のように発音してもそれほど大きな間違いにはなりませんでした。ところが15世紀から17世紀にかけて、英語の母音の発音に大きな変化が起こり、いわゆる現代英語の発音になっていきます。この時以来、英語は綴りをみて発音がすぐにわかる言語ではなくなりました。“Canterbury”(カンタベリイ)の“-bury”を(ブリイ)ではく(ベリイ)と発音するなんて、8世紀のイングランド人でしたら思いもよらなかったことでしょう。
 ただ、言語の変化はゆっくりです。話し言葉が書き言葉に残るまでにも大変時間がかかります。ノルマン人の征服は1066年でしたが、古期英語が中期英語に代わるまでに、100年から150年くらいはかかっています。日本語も同じかもしれません。古典の授業で、記憶に間違いがなければ、平安の頃、「は」は「ファ」とか「パ」と発音されていたと聞きました。最近の経験ですと、50年前、「異界」という単語は一般向きの国語辞典にはありませんでしたし、ウィンドウズ95でも、「いかい」と入力すると、「位階」などが出てきたものでした。今は「いかい」と入力しますと、「異界」が一番先に出てきます。辞書にもしっかり入っています。
 日本語の鼻濁音がこのさきどうなるのかわかりませんが、夜な夜なこんなことを思いつつラジオを聞いているとは、我ながら、なんと呑気なのだろうと思いました。