秋の虫

今年の梅雨明けは遅かったのですが、梅雨明け宣言が出る前に、既にちらほらと虫の音が聞こえてきました。お天気は時に気紛れですが、虫たちは気紛れなお天気を超えて、自然の中心軸に従って生きているのですね。梅雨明けとともに連日猛暑が襲い、か弱い人間は青息吐息です。その耳を打つのは周囲一面から聞こえてくる虫の音です。暑い最中、息苦しさと虫の音の世界の中で心が漫ろになります。

古来、秋の虫をうたう詩歌は多く、秋鳴く虫に心を寄せる人は多いと改めて思います。欧米では虫の音は騒音だと聞きます。そういえば、数少ない私の経験では、欧米で蝉や蟋蟀の鳴く音を聞いたこともありませんでしたし、見かけもしませんでした。そうすると、ディケンズの『炉辺の蟋蟀』(Charles Dickens, The Cricket on the Hearth)では蟋蟀の鳴く音を愛する貧しい夫婦が登場しますが、これは珍しいことなのかもしれません。この物語は、よく知られている『クリスマス・キャロル』と同じシリーズの『クリスマス物語』の一編です。1845年に発表された珠玉の作品で、村岡花子さんも翻訳されていらっしゃいます。ここでも蟋蟀の鳴く音を好むのはこの夫婦だけですから、欧米人の多くにとって、虫の音は心に響くものではないようです。そういえば、蟻とキリギリスのお話では、キリギリスは遊んでばかりいる怠け者でした。(子供心に蟻さんも意地悪だと思いました。このお話に限っては、私はキリギリスの味方です。)もともとはキリギリスではなく黄金虫や蝉だったそうです。フランスでは蝉です。蝉のいない所ではコウロギやキリギリスになったそうです。日本は蝉のいない地方の話が入ってきたのでキリギリスなのだそうです。

日本の秋の虫を歌ったものでは、滝廉太郎の「四季」の秋の歌「月」(または「秋の月」)も好きな歌の一つです。1900年発表ですから21歳のときの作品です。作詞作曲ともに本人のものというのは「四季」の中では「月」だけだそうです。

 

    光はいつも かはらぬものを/ことさら秋の 月のかげは/

    などか人に もの思はする/あゝなく虫も おなじこゝろか/

    こゑのかなしき

 

音楽の時間に学んで、歌詞の切なさに胸いっぱいになりました。月影を視覚でとらえ、その物思いを虫の音という聴覚に転嫁させ、彼の物思いの激しさを重ねて表現しているのですね。

もう一編、心に残る詩があります。朧げな記憶で、今となっては、詩の言葉も定かではないのですが。激しくすだく秋の虫の音に寄せた詩です。高校生用の雑誌に掲載されていた投稿詩で、詩を書いた方の名も残念ながら記憶に残っていないのです。秋の一夜、命を懸けて鳴く虫たちへの頌でした。あの虫たちは天のタクトに従って、狂おしく命の限りを歌い上げ、夜が明けるとき、夜を通して今日を限りと歌い切ったご褒美に、ようやく歌うことをやめるお許しをいただき、命を終える、といった内容だったと思います。虫たちが激しく鳴く季節になると、繰り返し思い出す詩です。鳴く虫の激しさに、命を懸ける必死さ、その終わりの残酷さに、私の心は抉られました。抉られながらも、その必死さ、激しさに心惹かれ、深く感動しました。初めてその詩を読んだとき、思わず、ノートに写し、さらに原稿用紙に写したものでした。 

その後、「愛飢男」というペンネームに出会いました。大学祭か寮祭かで売られていた小冊子の詩集にあった名前です。ガリ版印刷だったか出版されていたかは覚えていないのですが。この方は後に国語の先生になられたと聞きました。愛飢男さんの書かれた詩の内容は全く覚えておりませんが、このペンネームは強烈でした。私の中で、秋の虫をうたった詩と愛飢男というペンネームは、いつの間にか、一つに結びついてしまいました。 

今年は残暑が厳しく、秋とは言いかねる昨日今日ですが、庭中に響きわたる命を懸けた虫の音は、愛に飢えた魂の響きであるような気がしてきます。イギリスの詩人P. B. シェリーが、星を求める蛾のように、魂の飢えに悶えながら、宇宙空間に魂を遊ばせていた思いは、私の中では、狂おしいほど鳴きたてる虫の音に重ねられます。若い時は、虫の音の激しさに、何を求めているのかも定かでなく、ひたすら魂の飢えの苦しみばかりを重ねていたのですが、だんだんと、その先に見えてくるものに気がつきました。激しく、激しく、命を限りに歌う虫たちは、歌いきって、生ききって命を終えていくのですね。

この年になってみますと、この世の生を生ききって終えるというのは、必ずしも残酷なものではなく、完成のひとつの姿でもあるように思います。一つのいい終わりだと思えるようになりました。初めてあの詩を読んだとき、私は虫たちの残酷な終わりに衝撃を受けていたのですが、あの詩を書いた方は、あの年齢で、その先の平穏な完成の形を、すでに心に抱いていらしたのですね。返すがえすも、あの詩の写しを残しておかなかったことが惜しまれます。