冬至の頃

昨日は冬至でした。気持ちの良い冬晴れの一日となりました。最近夜明け前は4度、5度と気温は低く、開けた窓から入ってくる空気は、はっとするほど冷たいです。が、日が昇り、しばらく立つと南側は煖房がいらないくらい、時には窓を開けたくなるほど暖かくなります。

中学生だった頃、年を取ったら、縁側で猫を抱いて日向ぼっこをしながら居眠りをしよう、目が覚めたら杖をついて畑や田んぼの畦道をヨタヨタ歩こう、山小屋で暖炉の前の揺椅子に座り、毛布にくるまりながら絵本を眺めよう等々、いま思えば、生きることを全くわかっていない暢気な夢を見ていたものでした。 

南宇都宮にあった学校の周囲は田畑と雑木林で、季節の移り変わりがよくわかりました。駅から数分のところに県立の男子校があり、広大な敷地をぐるりと廻り、校庭の裏側の杉林を抜けると畦道です。そこを10分かそこら歩くと学校です。学校は神戸に本部がある女子修道院が経営し、教師の多くは神戸近辺からきておりました。当然、学校内の空気は神戸文化でした。最初に出逢った異文化であり、カルチャーショックを経験したところです。学校も雑木林を拓いて建築しましたから、その一画は雑木林です。校庭を挟んで校舎と修道院がありました。建物は日本離れした瀟洒な美しいものでした。校舎と修道院の間に道があり、そこには桃の木が並んでいました。桃を収穫しているところに居合わせたことはないのですが、あれはきっと食されていたに違いありません。寄宿生には振る舞われたかもしれません。 

雑木林は落葉広葉樹の木々が多く、鳥も、蝶も、(きっと様々な昆虫も)たくさんいました。毛虫もいっぱいいて、箸でつまんで油缶に入れて始末するということもしました。秋になって紅葉し、葉が落ちると冬が来ます。鬱蒼とした木々の葉はすっかり落ちます。林の中は常緑樹を残して枯木の山、丸坊主の山になりました。 

この時期の畦道の風景は素晴らしい眺めでした。刈り取りが終わり、田畑の向こうに広がる枯薄の群生は風が吹くと一斉に靡きました。日が射すと金色に輝き、真青な空に映えました。いま思えば、草原一面というものではなかったのですが、当時の私は想像が勝手に膨らみました。天気が悪く、厚く雲が垂れている日には、そこがまるでどこか遠い北国の草原であるかのような気持ちがして、冬の旅を連想しました。まるで私自身が冬枯れた野を彷徨う吟遊詩人か異邦人のような気分になったものです。日の短い冬の夕暮れ、西の空が鮮やかに赤く燃え上がると、県立高校の杉林が夕焼けを背景に黒々とシルエットになり、私の背後の枯薄に囲まれながら歩くような気分になり、帰宅の道は、故郷を遠く思う旅人の気分でした。 

大学院で学んだ、一番古い英語(古英語)で書かれたエレジー(哀歌)と呼ばれる詩を思い出します。それはまさに冬の旅です。若い時は王を盛り立て、戦いに明け暮れ、宴の席で酒を酌み交わしていたものの、やがて時が移ります。気がつけば、王もなく、友もなく、一人、厳寒に異境の地を彷徨う老いた勇士が独り言を漏らします。「王はどこに行った、宴の席はどこに行った」と嘆く彼の言葉は、14世紀の詩人、フランソワ・ヴィヨンの「去年の雪 いまいずこ」と重なります。 

あれから半世紀の時を経ました。学校は鬼怒川の更に先に移転し、聞くところによれば、かつての敷地も、雑木林も、近隣の田畑もすっかりなくなり、家々が建ち、土の道、砂利道は拡張され、アスファルトになったそうです。今頃は車が飛び交い、ここがかつて美しい田園だったことを知る人は少なくなったでしょう。本物の極寒の地より、遙かに暖かく、さらに小さな場所で、壮大に想像を広げたあの場所は、今も私の胸の中では熱い灯火となって燃え続けています。 

さて、昨日は早めに冬至湯に入り、冬至南瓜と、友からいただいたそれはおいしい大根鍋で、おいしいおいしい夕餉をいただきました。一年で一番短い冬至は、ヨーロッパでは光の祭典としてお祝いをされるようです。クリスマスが冬至の祝いと深い関係があるというのも意味深いことだと思いました。