志村一里塚

 久しぶりの長いお散歩で、中山道の一里塚を見に行きました。

 赤羽まで電車で出かけ、そこからてくてく歩きます。暑すぎもなく寒くもなく歩きにはちょうどいい具合です。もっとも天気予報では、曇りがちでも紫外線は強いですと言っていましたが。

 目的地は志村一里塚といわれているところです。日本橋から三里、つまり三つ目の一里塚です。一里塚という言葉はよく聞きますが、一里はほぼ4キロメートルということ以外は、ほとんどわかっておりませんでした。今回出かけるので一応下調べをしました。

 当初は、一里塚というのは石柱か何かがあるのかと思っていたのですが、「塚」とあるように、土盛りで、榎や松などの木が植えられていて、しかも、もともとは街道の両側に設置されていたそうです。かつての一里塚は5間四方(約9メートル)だったそうで、予想以上に広い場所だったのですね。かつては旅人の道標であったばかりでなく憩いの場所でもあったそうです。

 一里塚は、平安末期に奥州藤原氏白河の関から陸奥湾までの道に設置したのが最初で、全国的に整備されたのは江戸時代だったそうです。明治になり、劣化や鉄道の発達などの変化で荒廃が進み、明治9年には「一里塚廃毀」の法令も出されて取り壊しが進んだそうです。

これは志村の側にある一里塚です。榎が立派で、一里塚ってこんなに立派なものだったのかと、感動しました。

 今回訪れたのは、日本橋から3里、志村の一里塚ですが、驚いたのは一里塚がこんなに大きな立派なものであったこと、さらに街道の両脇に置かれていたことでした。歴史的経緯から、2基一対の塚が石垣と榎も備え、ほぼ完全な形で保存されているのは珍しいことだそうで、大正11年に国の史跡に指定されたそうです。現在志村一里塚は地元の町会の方々が手入れや清掃を行っているそうで、近隣は景観をそのままに留めているようです。2基のうち一方の住所は志村ですが、もう一方は小豆沢です。

 一里塚の傍らに説明版がありました。

下から見上げての写真ですので読みにくいのですが、説明版を立てた人たちはこの一里塚を大事にしているのだなと思いました。

 かつての中山道がどのようであったかはわかりませんが、時代小説などによく登場する一里塚ですから、感慨深く眺めました。もっとも、かつては旅人が一休みをしたのでしょうが、現在は石垣の周囲で喫煙者がのんびりと煙草を喫しておりました。この人たちに江戸時代の旅姿の衣装をまとわせ、帽子の代わりに日本手拭や菅笠などを持たせたら、それなりに絵になるなぁ、と思いました。

 帰りは駅を二つ歩いたところから新宿行きの都バスに乗りました。この辺は日本興業というバス会社と都バスが通っています。私鉄バスは230円、都バスは210円です。しばらくぶりにバスに乗り、板橋区から北区、中野区を経由して高円寺で降りました。バスに揺られながら、板橋区、北区、中野区、杉並区、それぞれの景観を持っている様子を楽しみました。