お勉強

 退職間近の三月ランチをしようと出かけました。メンバーはかつての同僚と友人、そして私の三人です。当日、同僚お勧めの関内の居心地のいいフレンチレストランで食事を楽しみ、四方山話を楽しみ、美味しいワインを楽しみ、またの機会を、などと言いつつお開きとなりました。帰りに、同僚が講師をしておいでの朝日カルチャーセンター(ACC)横浜に立ち寄りました。何と、それがご縁で私はその4月から朝日カルチャーセンター立川で英語を担当することになったのです。
 というのは、ACC立川で、引退された前任者の後任を探しており、そこに私が来合わせたのです。というわけでテキストも教授法も前任者のものを引き継いで3クラスを担当することになりました。二つは総合英語で、英文法、長文読解、和文英訳、自由英作文など、英語を総合的に学ぶクラスです。もう一つはミステリーを読むクラスで、E. S.ガードナーのThe Case of the Caretaker’s Catがテキストでした。
 勤務校では英文学史や英文学概論を除くと中世英文学関係の科目しか担当しておらず、英文購読、英文法、英作文は、例外を除くと30年以上担当したことがありませんでした。小説を読むクラスはまだしも、総合英語のクラスの授業はかなりの緊張感を覚え、クラスが始まるまで準備は念には念を入れました。
 そもそも、文法という論理的なことは苦手で、直感と感性で読むタイプなので、文法をきちんと学ぼうとする熱意には欠けておりました。文法の重要さ(と面白さ)を知ったのは学部の学生の時で、他学科の友人と一緒にパンセの原文を読み始めたときです。哲学専攻の友人は、パンセの文章を一語一語、句読点まで分析しながら丁寧に読みました。おかげで、字面だけからは読み取れない、深い意味を理解することができました。文法を学んで得る単語の知識を通して、その言葉の意味の領域を知り、同意語といっても全くの同意語というものは少なく、その僅かな差異が文章や作品の内容を知る上で大切な鍵になることを知りました。
 同時に、英語とはまた違う、フランス語の構文や単語の性格を理解することができました。そうしたことに気がつくたび、そうした気づきが、文章を丁寧に読むことの楽しみでもあることを知りました。ドイツ語や英語のようなゲルマン系の言語と、フランス語やスペイン語、イタリア語などのロマンス語系の言語の相違も面白く思いました。
 ヨーロッパの言語それぞれの性格や語形や意味の変化は、見知らぬ国の人々の考え方、歴史、地理的条件など、私の目を異国に向けさせてくれました。外国語の性格を知るにつれ、日本語の性格にも惹かれました。ヨーロッパ中世の中世文学を読んでおりますと、同時代の日本の文学の完成度の高さにたびたび感動しました。もっともっと、日本古典は愛され、読まれ、研究されていいはずだ、と折々に思いましたし、今もそう思います。
 クラスを担当するなかで、折々に思ってはいたことですが、改めて確信したことがあります。初等教育の根幹は読み書き算盤だと思います。ひところ、英語はできれば国際人という短絡した、そして軽薄な考えが風靡しました。今はその延長戦で、小学校(その余波で幼稚園でも)に英語教育が導入されました。英語が国際語といわれて久しいですが、英語を翻訳機のように話せることだけで国際人になれないことは当然です。また、外国にいったことがなくとも国際人である人も少なからずいます。それは英語が話せるか否かの問題ではなく、その人の心、精神のありようだからだと思います。
 幼い頃から他国の文化に触れることはいいことだと思います。その趣旨で英語を導入するならば、小学校での英語教育を点数で評価するやり方を変える必要があると思います。外国の様々なことに触れる驚き、楽しみ、不思議さを体験すれば、心惹かれたことに自ら求めて学ぶものではないでしょうか。もっと英語を学習したいと思った時に、その上達法の一環としてテストや評価が有効になるのだと思います。
 バイリンガルで育ったのでなければ、日本人はまず日本語をきっちり学んで欲しいと思います。師匠の一人は口癖のように、「外国語の習得は第一言語(母国語)の習得度に正比例する」とおっしゃったものでした。小学校では、外国語を学ぶ前に日本語をもっと丁寧に学んで欲しいと思います。その時期に身につけた日本語が血となり、肉となり、それぞれの人となりを育み、その人の人格を育んでくれる基本になると思います。現代日本語の読み方、書き方、話し方の基本をきちんと教えてほしいものだと思ったことでした。