夕まぐれ

夏至を挟んで明るい時間が長くなり、開放された心持ちを喜びましたが、7月も下旬になると、朝も4時を過ぎないと明るくなりません。夕方も夏至の前後は7時過ぎてもまだ昼の明るさの名残がありましたが、今は日暮れも早くなりました。 

この昼から夜に移る時間は逢魔時/大禍時ともいわれ、大人達は、暮れ方の薄暗い時間は大きな禍が起こる時刻と子どもに教え、神隠しに遭わないように、人攫いに攫われないように、用心するようにと注意したものでした。 

とはいえ、この時間は黄昏という素敵な名前でも呼ばれ、魅惑的な響きにふさわしい時でもあるのです。私は子どもの頃からこの時間帯が好きでした。日暮れになると家々は忙しく夕餉の支度にかかります。我家は両親と四人姉妹という家族構成ですから、女手は足りています。加えて不器用で要領の悪い私は邪魔になるので、この時間はお役御免です。もしかしたらこれは私の勝手な思い込みかもしれません。手が足りているからとはいえ、手伝いをしない私に、家族は困っていたのかもしれません。小言も言われていたのかもしれませんが、それは覚えていないのです。今思えば、どう考えても、こうした怠け心を喜ぶ親はいないでしょうから、きっと私は周りの視線に気がつかなかったのだろうと思います。周りがよく見えていないのは今も同じですが。 

そういえば、中高時代、家庭連絡簿というノートがあって、そこには毎日、起床時間、就寝時間、登校時間、帰宅時間、家庭学習時間、手伝い時間を記入し、二、三行何かを書く欄がありました。電車通学ですから登校のために乗る電車は一本しかありませんし、帰宅も同様ですから、この欄は6年間ほとんど同じです。手伝い時間はいつも5分でした。その中味は、神棚に御灯明を上げ、ご飯をお供えし、仏壇に水とお線香を上げ、ご飯をお供えすることでした。ということは、6年間、家の手伝いはほとんどしなかったということです。家事の手伝いをしなかったのは夕方だけではなかったのですね。今思えば、恥ずかしいというより、申し訳なかったことです。 

そのような次第で、夕方、人が忙しく立ち働く時間、私は悠々と部屋で本を読んだり、絵を描いたり、手紙を書いたり、一人トランプで遊んだり。畳に寝そべって空を見ると、はじめ薄かった闇が少しずつ、少しずつ、次第に広がって、濃くなって。それにつれて家々の煙突から煙が立ち上り、窓に灯りがつき、西の空が朱く染まり、東の空の藍色が深まります。お星様があちらに一つ、こちらに一つと現れ、やがてすっかり夜になり、空いっぱいに星が散らばるのです。四季の移り変わりによって、空気の感触や空の透明度などが違います。昼から夜へと刻々と変わる時にグラデーションがあるように、季節、季節の日暮れのグラデーションもあり、その様子は呆と眺めて飽きることがありませんでした。 

他所で見た日の暮れで、今も忘れられないのは函館山から見た夜景です。五月下旬、土日にかけて札幌で開催される学会で発表をするために出かけました。幸い、土曜日最初の発表でしたので、千歳空港からタクシーで開催校に直行し、タクシーにそのまま待っていてもらい、(当然、準備は可能な限り頑張りましたが、)発表を済ませると、そそくさとタクシーに戻り、新札幌まで行き、函館行きの電車に乗りました。札幌を出てほどなく雨が降り出し、雨あしも激しさを増し、夜景は無理かと案じていましたが、日頃の行いがさほどよいわけでもありませんのに、なんと、大沼を過ぎたあたりから晴れてきたのです。 

(地元では徒歩で登る人も多いそうですが、)函館山のロープウェイで山頂についたとき、夕方はまだ始まったばかりでした。東京と違って、五月下旬の函館山山頂はまだ薄寒く、もう一枚羽織ってくるべきでしたが、見下ろす景観の素晴らしさはそれを補ってあまりあるものでした。帝国書院の地図通りの地形が眼下に広がっていたのです。 

少しずつ薄闇があたりを包み、次第に闇色が濃くなり出しますと、市街のあちこちに、一つ、二つと明かりが灯り始めます。交通信号の赤と青が目立っていた街に、様々な色の照明が加わります。あれが市庁舎、あれは教会、あれは学校らしいと識別できた建物が少しずつ闇色に染まり、やがてみな暗闇の帳に隠れたとき、眼下には、両側を暗い海に挟まれた大小、色様々の宝石で飾り立てられた函館の街が耀いていたのです。特に、市街の通り、通りが、アクアマリンのネックレスのように耀いていた景観は言葉が見つからないほど美しいものでした。あれが交通信号の青だったとは。今思い出しても感動します。夜景だけを眺めるのではなく、日暮れ時から夜景に移る時の刻々変わるグラデーションがあってこその夜景なのです。空気の冷たさに我慢ができなくなるまで夜景に魅せられ、後ろ髪を引かれる思いで下界に降りてきました。その後タクシーの運転手さんに紹介されたお店で海の幸とご酒を堪能したのは言うまでもありません。 

翌日、函館トラピスト修道院に行きました。ショップでベネディクト会修道院規律の翻訳本を見つけ、手に取っていましたら、「そこにいるシスターは〇〇さんに似ている」とからかう声。振り返ると、なんと大学院の先輩たちがニヤニヤ笑っているのでした。思わず、どぎまぎし、狼狽え、返す言葉もありませんでしたが、皆さん、ご機嫌よくおしゃべりを続けておいででした。函館の夜景と一緒に心に浮かぶ思い出です。 

さて、今、そろそろ人生の手仕舞いが見えてきていい歳なのだろうと思います。残念ながら、自身がその年になって見ますと、以外とたいしたことがありません。子どもの頃、50代、60代、70代というのは、もっと枯れた、成熟した、達観した人生観を持ち、淡々と生活をしているのだろうと想像していました。ところが、古稀を過ぎても、年令相応の落ち着きも成熟もなく、未だに子どものようにあたふたと慌て焦り、未熟のまま歳を重ねてしまいました。子どもらしさと子どもっぽいとは違いますよと小言を言われたときと、さほど変わっていないような気がします。 

ですが、そのおかげで日暮れ時が今も好きならば、未熟なまま歳を重ねたこともそう悪いものではありません。晴れた日は晴れた夕空を、雨の日は雨の日暮れを、それなりに心楽しく呆と見続けることのできる日々は悪くないなぁ、と思います。明日もまだ梅雨は明けないようです。雨のおかげで緑の葉は元気です。きっと紫陽花の葉陰で蝸牛さんも元気に違いありません。