野菜鍋

つい最近、オーガニック食品を選んで食している友人から野菜が送られてきました。知りあいの若いご夫婦ができるだけ自然野菜を目指して作っているそうで、おいしいからと送ってくれたのです。まだ、畑の土がついたままの、見るからに健康そうな、はち切れるという言葉がぴったりの白菜や大根でした。 

さっそく柚を合わせて、白菜鍋、大根鍋でいただきました。そのおいしかったこと!食材そのものの味のおいしさで、調味料がほとんどいらないことに驚きました。その瞬間に思い出したのです。東京に出てくる以前の野菜の味を。当時、野菜は背負子を背負ってやってくる母の友人から買っていました。胡瓜も茄子も大根も牛蒡も人参もトマトも葱も、畑で完熟し、丁度いい具合に育った時に収穫され、収穫したその日のうちに持ってきてくれました。どの野菜にもうっすらと畑の土もついていました。 

人参や牛蒡は今のものより灰汁が強く、牛蒡など洗っているうち、瞬く間に水が黒くなり、手指も黒くなりました。どの野菜もはち切れるほど身が詰まっていて、ずっしり重たく、みずみずしく、いかにも健康そのものの野菜でした。味が濃く、野菜の味そのものでおいしく、調味料なしでもいただくことができるほどでした。まだ、ガスなど通っておらず、電気釜もなく、ご飯は竈の薪で焚いていた頃の話です。 

クツクツといかにもおいしそうな音を立てて煮えていく野菜を見ながら、そして味わいながら、なんてきれいなおいしい白菜だろう、しっかりした真っ白い大根を煮れば、なんと柔らかくおいしい大根に変わるのだろう、と舌鼓を打ちながら、幸せに野菜鍋の夕べを楽しみました。野菜を送ってくれた友人は、そして友人の知りあいの野菜農家のご夫婦は、毎日こんなにおいしい野菜を食しているのかしらと、友の幸せな顔も想像できました。 

本当においしいものはその地に行っていただくものだ、手をかけて育てた野菜はおいしい、ということは、知ってはいたのですが、そして折々に心から再認識するのですが、日々の営みの中で私はすぐ忘れてしまいます。ただ、こうした自然の恵みを時々、味わいますと、物の本質改めて感動し、そういうものだったと思い返すのです。ついでに、これは、野菜のことだけではなく、万事に通じることではないかと思いを巡らせるのです。 

友からの野菜は、おいしいだけではなく、人として生きることの本筋を改めて気づかせてくれました。この野菜の味はしばらく忘れられそうにもありません。おかげで、この一年、コロナの日々で明け暮れそうですが、年も押し迫ったこの時期に、大事なことを再認識できて何よりでした。