日盛りの道

連日の猛暑でついぼんやりする時間が多くなりました。するべき義務が差し迫っているわけではありませんので、好きなだけぼんやりできる怠惰な時は、思えば贅沢というものでしょう。そんな中で、猛暑はただ同じではなく、多様な相を持っていることに気がつきました。過去の日々のよく似た猛暑に出会うと、その時に浮かんだ思いまで思い出すものです。 

数日前、日盛りの中をとぼとぼと歩いていました。カンカンと注ぐ陽射しは刺すように強かったのですが、湿気はそれほどでもなかったのでしょうか。陽に焼かれる衣服は太陽熱を吸収し、全身はカラッと乾きたての洗濯物に包まれているようでした。これが冬だったら暖かくて嬉しいのだろうな、と思った瞬間、そうだ、同じことを思ったことが二度もある、と思いました。どちらも陽射しと熱風の中で、焼かれるような思いを抱えて歩いているときのことでした。

一回目は、中学生になったばかりの頃、下校途中、友達と、(もちろん歩いてはいけない道ですが、)滅多に電車が通らない線路に沿って歩いていたときのことです。ごくたまに、真夜中に貨物列車が走ることがあるとかいう線路でした。通常の線路は常に電車が走っていますから、線路はピカピカで光っています。その線路は所々赤い錆も浮いていました。伸びた線路から落ちないように歩くのが楽しくて、時々(こっそりと)歩いていたのです。 

その日は猛暑で、下校時間になっても、ギラギラ燃える太陽の陽射しは、一向に弱まる気配はありませんでした。線路の先はゆらゆらと陽炎に揺れて見えました。私たちは釣り合いをとりながら線路の上を、一歩一歩、歩いていきました。間もなく、線路が振動しているのに気が付きました。「電車が来るわよ!」と注意する声に、あわてて線路から降り、草叢に身を退きました。しばらくたってから電車のやってくる音がどんどん大きくなり、なんと、貨物列車がやってきたのです。それほど長い貨物ではありませんでしたが。吃驚して見上げる私たちの目の前を、列車は轟音とともに去っていきました。あの陽射し、あの熱気、陽炎、そして貨物列車の轟音はセットで、その後も時々思い出されました。 

二度目は、もっと以前、小学生になったころでしょうか。カンカン照り付ける真っすぐ伸びたアスファルトの道を、一人とぼとぼ歩いていた時のことです。「どこまで行っても長い道」の歌詞を、心の中で繰り返し思い出しながら、なかなか辿りつけない心細さを感じていました。ふっと、かなり先を行く母子二人連れの後姿が現れたのです。その道は一本道なのに、一体いつ、どこから現れたものやら、私は、全く気づかなかったのでした。 

足元から熱気が立ち上るほどの酷暑です。彼方の景色は陽炎の中でゆらゆら揺れています。二人は陽炎の中を歩いていたのです。母親は白っぽい上布の単衣にきりっと締めた夏帯姿で、帯には茄子と赤蜻蛉、白い日傘には赤味がかった蟹と鬼灯が描かれていました。どちらも同じ手で描かれた淡彩です。隣の女の子は五つ、六つ、私と同じくらいでしょうか。鍔の広い白い帽子を被り、真っ赤なワンピースの裾が揺れていました。二人の足取りはゆっくりで、急ぐ風もなく、陽炎の揺らぎに合わせるかのように、一足、一足歩いていきます。私は二人の姿に惹かれ、近づいてみようと足を急がせました。急がせたつもりなのです。ところが、距離は全く縮まりませんでした。足を動かすことそのものに気を取られているうちに、いつのまにか、二人の姿は私の視界から、消えてしまっていたのでした。 

貨物列車の場面には轟音があり、母子連れの場面は静寂ですが、烈火の陽射しには、轟音も静寂も不思議によく合うように思います。大人になってから、母子の話を妹にしたことがあります。「え、それ、お母さんとあなたじゃないの」と言われ、茄子と赤蜻蛉の夏帯を見せられました。「赤いワンピースは、子供の頃、お揃いで着たじゃないの」の言葉に、私はただ吃驚するばかりでした。いったい私は何を見たのでしょう。それとも見なかったのでしょうか。その母子を見た経験が現実なのか白昼夢なのか、私には未だに曖昧なのですが。 

この度とぼとぼと歩いた道も真っすぐでした。道の先には陽炎が見えます。陽炎のなかで、白い花びらの中心が濃い赤に染まった木槿が、ゆらゆらと揺れていました。この暑さ、この乾いた熱気、そして陽炎。二つの思い出を繋ぐ猛暑に、この度は赤い中心を持つ白い木槿の景色が加わりました。