雨の日のひとりごと

雨が続きます。雨の粒が八手や青木の葉にポツポツ落ちてきて、葉の先からポツンポツンと雨の粒が地面に落ちていきます。こんな時、ふと、子供の頃に耳に馴染んだ雨の歌が甦ってきます。「あめ、あめ、降れ降れ、母さんが…」「あめが、あめが、降っている、聞いてごらんよ、雨の音…」「雨が降ります、雨が降る、遊びに行きたし傘はなし、…」などなど。この中でも悲しいのは、「遊びに行きたし、傘は無し」です。(記憶に間違いがなければ、)次に続くのが「紅緒のかっこも緒が切れた」です。歌っていてもこれは悲しい。二番目になると、「いやでもお家で遊びましょ、千代紙おりましょ、たたみましょ。」よほど雨が嫌いなのでしょうね。

母さんに蛇の目でお迎えしてもらえるのは、みんなではないですね。この歌の中では、柳の根方で泣いている子供にもいます。雨の日に傘がなくても私は泣きませんが、この歌を聞くと、小学生だったころの母の言葉を思い出します。「雨が降りそうなら傘は持っていきなさい。忙しいから雨が降っても傘を届けてやれないし、家で働いている人はあなたのために来ているのではないから」と。当然です。ですから、傘無しの日に降られたら濡れると覚悟していました。たいていは友達が「入っていけば、」と一緒に帰ってくれました。ほかの同級生も同じだったと思います。ある日のことです。午後、ひどい大雨になりました。この雨では入れてもらったら友達に悪いな、と思っていましたら、なんと、忙しくて届けられないはずの母が傘を持って教室の窓の外に立っていたのです。傘を届けてもらったのはその時だけだったと思いますが、その時の驚きと有難さと嬉しさは今も忘れられません。

雨の歌の中で一番好きなのは「雨降りお月さん」です。雨降りお月さんは、「お嫁にゆくときゃ誰とゆく」と聞かれて、「一人で傘さしてゆく」と答えます。「一人で」というのはお月さまだから一人なのでしょうが、やたらに他人に甘えないで生きていくわ!という気概が見えて嬉しくなります。さらに「傘ないときゃ誰とゆく」と聞かれます。すると「シャラシャラシャンシャン鈴付けたお馬に揺られて濡れてゆく」と言い切るのです。二番では「お袖は濡れても乾しゃ乾く」と、健気で元気がいいのです。この歌を思い出すと、めそめそ泣いたりしないで、なんとか元気に生きていけるかな、生きていこうかな、という気持ちになるのです。

子供のころは雨が嫌いとは思わなかったと思います。雨の日は嫌だなぁと思うようになったのは、思春期の頃からだったでしょうか。「雨降りお月さん」の歌を思い出しても元気になれない時もありました。

それから時がたち、雨が好きとか嫌いとか言っている暇がなくなりました。ある春の朝、幼稚園に入ったばかりの三歳の娘を送っていこうとしたら、珍しく土砂降りの雨でした。まだちゃんと傘の柄も持てないので嫌がるかと思ったら、本人は元気そのものです。軒から雫が落ちると「雨さん、おはよう!」と言い、水溜りを見ると「水たまりさん、おはよう!」と声をかけていました。その言葉に、心が年取って後ろ向きになっていたのは私だったと反省しました。

 

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「大気圏の彼方には…」の話を聞いて描いた絵の中の一つです。気に入って何枚も描いたのですが、うまくいきません。そのうちには…

中学校のとき、「雨が降っても、もっともっと高い大気圏の彼方ではいつも晴れているんだよ」と話してくれた先生がいらっしゃいました。その言葉に喜んで、何度も何度も、心に浮かんだその光景を絵に描いてみました。そういえば、「雨が降ったとき、雨粒が傘に落ちる音は楽しいよ」と言っていた友達もいました。その通りですね。雨の日も、紫陽花や蛙や蝸牛のように、心楽しく元気に過ごせるな、と思ったことでした。

それにしても、「雨降り」の童謡ではなぜ「傘がない」という言葉が出てくるのでしょうね。傘をを忘れて困ったことが多かったのでしょうか。それとも、この世を生きていると「傘がない」心持になることが多いのでしょうか。