コロナウィルス猛威 その2

前回のブログについて、「確かにCOVID19は怖いけど、そう思っていない人もいるし、怖がっていても生活は普通に続けているんじゃない」とのコメントをいただきました。そうでした。おっしゃるとおりです。というわけで、ありがたくコメントを頂戴し、今日はその続きを。

今回のCOVID19で瞬間的に連想したのは、祇園会の始まりが疫病の流行を鎮めるためであったとか、中世ヨーロッパの黒死病と呼ばれるペストの大流行のことでした。ほぼ40年も前の学生時代、中世の抒情詩に、特に、死の抒情詩に惹かれました。中世の抒情詩は大きく世俗の抒情詩と宗教抒情詩にわかれます。世俗の抒情詩は現世の種々数多な、例えば恋、悪口雑言、世間の噂、ミニコミ誌、週刊誌の種になるようなことが歌われました。一方、宗教抒情詩は文字の読めない庶民教化のため、托鉢修道士、主にフランシスコ会修道士が歌詞をつくり、当時の流行歌の曲のせて歌われたそうです。大流行だったようで、ある司祭はミサの最中に本来の歌詞ではなく、世俗歌の歌詞で歌ってしまったという逸話もあるほどです。これも大きくキリスト賛美、マリア賛美、死の抒情詩にわかれます。

死の抒情詩は、当時猛威を振るった黒死病の影響もあり、庶民の死と地獄に対する恐怖を煽り、現世無常を訴え、この世を信ずることなく天国に宝を積め、そのためには悪行を避け、施し、よく祈れ、そうすれば天国に行ける、そうでないと地獄に堕ちると教えます。内容そのものはキリスト教の基本的な教えで、日本の十界図と似たような構図の絵などを見せるなどして説いたようです。  

宗教的な教えというのは往々にして抽象的で心に響かず胃の腑に落ちないのですが、死の抒情詩に出会って初めて、疫病と死を怖れ、来世の福を希む心情の一端に触れることができました。今回のCOVID19で中国、アメリカ、スペイン、イタリアなどで驚異的に感染者が増え、死者の数が増す様を見聞きし、その脅威が日本を襲い、そのときはじめて私は、当時の人々の心情に私の心をあわせることができたのでした。

とはいえ、中世の人々が黒死病に怯えて何もできなかったわけではなく、人々は怖れながらも日々の生活を続けていたし、面白ければ笑い、楽しむときもあり、ときには乱痴気騒ぎをしていた人々もいたのです。

14世紀後半のイギリスに生きたジェフリー・チョーサーは、シェイクスピアに並んで世界に誇る詩人ですが、その代表作に『カンタベリー物語』があります。その中に「免罪符売りの話」というのがあります。話の舞台はフランダース。三人の若者が居酒屋で罰当たりなことを言いながら酒を飲み乱痴気騒ぎをする場面で話が始まります。三人は何千人もの人間を殺してきた「死神」を退治しようと出かけていきます。ある老人に「死神はある樫の木の根元にいる」と聞かされます。が、そこで見つけたのは死神ではなく、莫大な金貨で、三人は当初の目的を忘れて大喜びをします。金貨を持ち去る前に腹拵えをしようと、籤で食料とワインを調達する者と金貨の番をする者を決めました。一人が出かけている間に、二人は宝を二人で山分けしようと、買い出しに行った者を殺す相談をします。一方、買い出しに行った者も宝を独り占めにしようとワインに毒を仕込みます。仲間の所に戻ると二人は男を殺し、これで宝は自分のものと喜んで食事をします。ところが二人は毒入りワインを飲んで死んでしまいます。というわけで三人とも死んでしまいましたという話です。この話の類話は日本にもあります。

ともかくも、欲張った三人は死んでしまうのですが、彼らは結局「死神」に捕まってしまったのかもしれません。当時、大鎌を振りかざして人々を追い立てる死神の図がよく描かれたのですが、この死神は黒死病であったのだろうと思います。このたびのCOVID19の場合も、猛威を振るう見えないウィルスを厭わしく思いつつも、人は働き、買い物をし、多くの活動をいたします。電車に乗れば、昼間は幾分空いていますが、乗客はいつも通りスマホをいじり、本を読んでいます。コメント氏のおっしゃるとおり、私はその側面を当然過ぎて見落とし、触れていなかったのでした。

そう言えば、中世の娯楽の一つに興味注がれる人形劇があります。その舞台は二段に分かれていて、上段では宗教劇を、下段では世俗劇を演じ(こちらは相当猥褻なものもありますが)、観客はどちらも食い入るように見ていたということです。人の世に生きるということは、二つの芝居を同時に見るようなものかもしれないと思いました。感染者は増え続け予断を許しません。緊急事態宣言も発動されるようです。よい方向に行きますようにと思う反面、おそらく思わぬところで大変な余波に苦しむ人も多いだろうと案じられます。

このような時にこそ事態を冷静に見つめ、穏やかに、遊び心も忘れず、するべきこと、できることを積み重ね、淡々と生きていかなければいけないな、と思いました。コメントのお返事になっていないかもしれません。まだまだ見落としていることがいっぱいあると思います。ということは、たくさん書くことがあるということでもありますね。