チョーサーの身過ぎ世過ぎ

キーツは、シェイクスピアには「ネガティブ・ケイパビリティ」があったと書きましたが、折々に、13世紀の詩人チョーサー(Geoffrey Chaucer,  1340頃 – 1400)もその一人ではなかったかと思うのです。

チョーサーは「イギリス詩の父」と言われ、中世を代表する、そして中世英文学を学ぶ者なら誰しもその作品の一つや二つは読んでいる詩人です。「チョーサーの身過ぎ世過ぎ」というタイトルは、大学院時代の恩師が講演した時のタイトルです。師は、チョーサーは日本ではあまりにも聖人君子のような読まれ方をしているが、そんなものではない、という趣旨で話をされましたが、後日、それを授業の時に再演(?)してくださったのです。

チョーサーはロンドンのワイン商の息子で、父親が王室酒類管理室代理だった縁でエドワード三世、リチャード二世に仕えました。チョーサーはフランスではフランス文化の影響を受け『薔薇物語』を、イタリアではイタリアルネサンスの影響を受け『トロイラスとクリセイダ』を、そして最終的にイギリスに落ちついた時、代表作である『カンタベリー物語』を結実させました。1400年にこの世を去り、その墓はウェストミンスター寺院内の「詩人コーナー(Poets’ Corner)」にあります。一見、順風満帆の一生を過ごしたように見えますが、彼の生きた時代は、チョーサーの立場にある人間が静かに平凡に暮らすには激しい時代であったことと思います。この時代、宮廷で生きのびることそのものも、さぞ大変なことであったろうと思います。

まずは彼の結婚です。チョーサーはエドワード三世妃の侍女フィリッパと結婚します。フィリッパの妹はエドワード三世の三男、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの三番目の妻ですが、フィリッパ自身がゴーントの愛人だったと言われています。庶民出の彼が貴族と結婚した理由の一端がここに見えてきます。財政的な面では恵まれることになるのですが。

当時のイングランドはいわゆる百年戦争(1337-1453)の最中でした。チョーサーも1359年、フランスで捕虜となり、身代金を払って釈放されています。また当時は、ヨーロッパの人口を半減させたとも3分の1にしたともいわれる黒死病と恐れられたペストの大流行のさなかでした。チョーサーが生きた時代だけでも、1348-1350年、1360-1363年にかけて大流行がありました。イングランドは勿論ですが、ヨーロッパ全体で見ると、中世のペストは1348年から15世紀半ばにかけて断続的に流行しました。医療は未熟で、致命率は高く、イングランドやイタリアでは全滅した街や村もあったそうです。多くの犠牲者が出ただけではなく、特に農民層の人口減は大きく、時代は、抗いようもなく、中世から近世へと変わっていくことになるのです。

百年戦争黒死病など様々な理由は国の財政を圧迫し、農民に対する課税強化が行われます。その過酷さの結果、農民一揆が起こります。世に知られたワットタイラーの乱(1381年)もその一つでした。彼らはロンドンを占領し、カンタベリー大司教や財務長官を殺害し、当時10代前半であったリチャード二世に謁見します。王は彼らの要求を受け入れる姿勢を見せますが、2回目の会見の時、ロンドン市長がワットタイラーを殺害し、反乱は鎮圧されます。この時、チョーサーはロンドンでこの様子を見ていたのではないかと推察されます。

この時の王、リチャード二世はエドワード三世の孫で、早世した百年戦争の勇士、エドワード黒太子の息子で、黒太子の弟、ジョン・オブ・ゴーントの甥です。彼はよく国を治めることができず、ジョン・オブ・ゴーントの息子(後のヘンリー四世)のクーデターで王位を剥奪され、幽閉され、死去します。

リチャード二世没後、数ヶ月ほど後にチョーサーは世を去ります。彼は、エドワード三世、リチャード二世に仕え、ヘンリー四世からも年金を授与されます。三代の王の変遷を身近に見ながら生きたことになります。彼が生きたのは、僅かの運の傾きで失脚やら死刑やら幽閉やらが日常茶飯事のように起き、人生の浮き沈み激しい騒然とした時代だったと思います。チョーサーの周囲にも運命の波に呑み込まれた人は少なからずいたと思われます。厳しすぎるこの現実の中で、運命の荒波に呑み込まれることなく、失脚することなく、チョーサーは、良くぞ一生を全うし、生き延びることができたものだと思うのです。

何もかも見てきたチョーサーですが、作品にそうした政治的背景や現実の大事件が直接に描かれることはありません。人間の本性や心を、あれだけ鋭く深く洞察するチョーサーですから、気づかなかった、見なかった、感じなかった筈はありません。迂闊な言動一つが命取りになる世界に生き、しかも詩人ですから、口が、筆が、ほんの少し滑っても不思議はありません。それがなかったということは、それ自体大したことだと思います。しかも、小心翼々と生きたわけではなかった事も、作品を読めばわかります。言動の過ちの一線を越えず、悠々と、皮肉や批判を笑いのオブラートに包んで、第一級の言葉で、完成度の高い作品を生み出したということは、まさに奇跡に近い驚異的なことだと思うのです。

タフな魂を持ち、不確実な中、心乱れても足を取られず、酸いも甘いもかみ分け、機を見るに敏にして、平常心を保ちつつ生きながらえたチョーサーこそ、ネガティブ・ケイパビリティを持った人だったのはないかと思ったことでした。