散歩はどこへ

 退職して以来、コロナ流行もあって、外出が少なくなり、当然歩くのが億劫になってきました。そんな時、かつての教え子が老化と経年劣化を心配して、時々散歩に誘ってくれるようになりました。有難いのと、散歩の行き先に好奇心がそそられ、最近は次のいくところが楽しみになりました。

 これまでは杉並区最高地点と最低地点、杉並区に唯一残っている東京府時代のマンホールの蓋、23区内にある唯一の牧場。浴風園(老人福祉施設)の本館など。最近行ったところで面白かったのは、埼玉県にある東京都の飛地、妙見島、それから東京都と千葉県の間にある帰属未定地の一つです。

 飛地は、西荻窪駅前から大泉学園駅南行きのバスの乗り、終点から6㎞ほど歩きます。場所は、新座市練馬区西大泉町を隔てる道路の新座市側にある12軒ほどの地域で、周囲わずか170mの東京都が新座市に囲まれているのです。通り過ぎるだけでは全く気が付かないのですが、自動車のバンパーや電信柱などにある住居表示でわかります。これまで何度か整理をしようという試みもあったようですがまとまらず、今日に至ったとのこと。いきさつはともかく、飛地の東京都ではどんなふうに日常生活が営まれているのか、つい好奇心がそそられます。子供たちの通学区域は東京都なのでしょうから、公立学校に行く子供たちは東京都の学校に行くのでしょう。横浜の大学付近で、同じ公立学校ながら、目の前にある小学校に行かず、バスに乗って終点から子供の足で10分以上歩く学校に通っている子供たちが大勢いました。それを思えば、2、30分歩くのはたいしたことではないかもしれませんが。(今市にいたころ、一番遠くから徒歩で通っていた同級生は、家から学校の校門まで40分以上かかると言っていました。)が、水道水や電気はどちら側から送られてくるのでしょう。

 次は妙見島です。これは23区内唯一の非人口島と言われているそうです。江戸川区の旧江戸川の中にある川中島です。南北約700m、東西約200m、東葛西の一部だそうです。東側の旧江戸川の水面に東京都と千葉県の境界があるのだそうです。島は1979年以降コンクリートの護岸で囲まれて、外観は軍艦を連想させます。それまでは、流れる島だったそうです。北の端が削られて、南の端に土砂が堆積して、徐々に下流に移動していたのだそうです。明治初期には現在より80mほど上流にあったのだそうです。島は、現在、工場やマリーナなどがあり、社員寮などで暮らす人たちが生活しているそうです。北側に妙見神社があって、浦安橋から島に降りていくことができます。ただ、島の中の道路は車の往来が激しく、中を散歩するという場所ではなさそうです。トラックと猫が多いそうですが、私たちが行ったとき、多いといえるほどたくさんの猫はいませんでした。

 一番古い記録では、14世紀に妙見堂が建設されたそうです。『南総里見八犬伝』の舞台としても登場するらしいのですが、私の記憶には残っていません。明治時代中頃に東京都に編入され、工場が建ち始め、昭和初期には工業地帯になったそうです。かつては漁業も盛んで、海苔工場や貝の加工工場もあったようですが、1960年代には水質汚染の漁ができなくなったとのこと。

 妙見とは千葉氏の守り神である妙見菩薩のことだそうです。初代の妙見堂は東一之江村の妙覚寺に移されたそうですが、今はそれもなく、昭和に再建された妙見寺/妙見堂になったものが残っているのだそうです。

 川中島にコンクリートで守られている島の周囲を満々と水を湛えた川が流れ、緑の草々が青々と茂り、真っ青な空と川との空間を流れる風の心地よさ。面白いところでした。川風の気持ちの良さに時を忘れ、心が浮揚してしまい、写真を撮るのを、すっかり、忘れました。

 そして帰属未定地です。東京都と千葉県の境界線が決まっていない場所は、今回散歩で出かけ所以外にもあるそうですが、今回出かけて行ったのは江戸川が分岐する周辺で、河原番外地と呼ばれているそうです。最寄り駅は都営地下鉄線の篠崎駅地下鉄東西線妙典駅。どちらからも歩いて15分ほどの所です。行きは篠崎駅から歩きました。友人が持参した国土地理院の地図を見ると江戸川の真ん中にある境界線は分岐点の少し手前で消えています。

 水門所には国交省の事務所があって、便宜上、電話番号は東京都の管轄になっているそうです。その向かいに野球のグラウンドがあって、当日も少年たちが野球の試合をしていました。グラウンドの周りに大人たちがのんびりと観戦、応援をしていました。様々の注意書きには市川市とあります。ここが市川市の領域なのか実効支配なのかはわかりませんが。これまた江戸川区市川市との話し合いに決着がつかず、今もって平行線なのだそう。

 ここに住民はおらず、国交省の「江戸川河川事務所江戸川河口出張所」があるだけで、住民は帰属未定地に関しては特に問題と意識していなさそうです。野球少年たちも見物人の大人ものびのびと楽しげで、長閑で良い場所です。広々としたグラウンドの周囲は青々とした草原で、吹く風はそよそよと気持ちよく、真っ青な空の下を流れる川の色は澄んだ藍色。紺碧ってこんな色かしらと思いました。こんなにもきれいで深い藍色をした川の水は見たことがありません。河原周辺をしばらく歩いて、帰りは東西線妙典駅に出ました。青い空、紺碧の川水、緑の草原に目も心も奪われて、またまた写真を撮るのを忘れました。

 どの散歩も楽しかったです。面白いところを見つけてくれる友人に感謝。そのあとの食事とソフトクリームも最高でした。

 

 

 

金継ぎ

 2011年の東北の大地震のとき、各地での大被害を思えば言うも恥ずかしいことですが、大事にしていた杯が割れました。きれいに割れていたので、捨てるに忍び難く大事に閉まっておきました。

 それから12年、この杯が金継ぎで蘇りました。金継ぎで継ぐということは頭の隅にはあったのですが、慣れないことですので手が出ませんでした。少し前に、金継ぎの講座に出たいという娘が「割れ物の陶器ないかしら。金継ぎに使いたいので。」と言いますので、この杯が日の目を見たというわけです。

 漆を接着剤に使い、金や銀、その他の塗料材を重ねるなど細かい作業があり、乾く時間を待つと結構日数がかかります。二か月ほどたったころ、出来上がってきました。はじめてにしてはなかなかの出来で、以来、晩酌の友になっています。

一作目の金継ぎです。どんな出来具合になってくるかと思っていましたが、なかなか。早速使用しています。漆が使われているということは、食洗器はだめですね。

 金継ぎそのものは縄文時代でも漆で継いでいたそうです。最初の金継ぎは中国から贈られた陶器に鎹(かすがい)が使用されたそうで、このエピソードはあちこちで見つかりました。「子は鎹」という言葉は、もしかして、ここからきているのでしょうか。

 陶器(チャイナ)と漆(ジャパン)の組み合わせで、文字通り、両国もそうであればいいのですが。陶器の修復に大体漆が用いられるようになったのは12、13世紀くらいから、今のような金継ぎの技法は安土桃山時代の頃だったようです。ヨーロッパも、当然、修復の技術は昔からあったようで、そのうち調べてみたいと思いました。

 さて、娘はその後も金継ぎを楽しみ、新しいことを覚えるのが嬉しく楽しい様子。私も、祖父母の時代からの脆くなった陶器の欠け教材を提供ししています。普段使いの物ばかりですが。金継ぎ教室のお仲間の中には、割れたら金継ぎにすると決めて食器などを買っているという方がいらして、いつも素敵な教材と持っておいでとのこと。「私もそれを念頭に、金継ぎしたくなるような食器で揃えようかしら」などと申します。私はこっそり胸の内で、「いえいえ、今でも結構素晴らしい物がいっぱいありますよ」と呟いたことでした。

 

 

'23年 山の実り

今年は5月以来天候不順の日々が続き、台風襲来のたびに各地に大雨の日々と大被害をもたらし、さらに猛暑酷暑が続き、息苦しい日々を喘ぎ喘ぎ生き延びた夏でした。例年並になってしまった異常気象でしたが、今年はさらに異常な日々で、この先もずっとこうした夏を迎えるのだろうかと、暗澹たる思いに襲われました。

 それでも秋が来るのですね。今夏、いつもなら喧しく鳴きわめく蝉の数が少なく、虫の音も細々でしたが、9月過ぎから彼らは悲鳴のように鳴き叫んでいます。ほとんどは蟋蟀と鉦叩きです。10年前には轡虫、螽斯、鈴虫の音も聞こえました。今は聞かれません。ひと頃、青松虫という外来種が大きな声で歌っていました。声はきれいですがあまり声量がありすぎて、ほかの虫の音が消されてしまいそうになるのが残念でした。この数年その青松虫の音も聞かれません。この辺の自然に、なにか異変がおきているのでしょうか。

 そんなわけで今年はあまり山には行けませんでした。それでも去年の経験が生きて、いくばくか秋の実りを手にすることができました。

小さい実がびっしりです。近くの広場の脇に一本の葡萄の木が数本の別の木の幹や枝に絡みついています。これはほかの人も採るので、収穫量は運次第です。

 まずは山葡萄です。昨年は収穫が少なかったのですが、今年はその3倍くらい実が取れました。それでジュースを作りました。実を絞り、煮沸し、漉します。市販の葡萄ジュースより渋みと酸味が強く生のままでは飲めません。ほどほどに薄め、羅漢果(砂糖の代わり)とレモン汁で味を調えます。山の味がします。あっという間になくなりました。

少し乾いていますが、木になる実の姿がこれです。大体三方向に角のように実の端が伸びています。その中央に角の数だけ実をつけます。

 もう一つは角榛です。去年はタイミングが合わず、食することのできる実は取れませんでした。今年は一杯取れました。毛羽だった外皮を外し、硬い殻に包まれた実を取り出します。殻は胡桃割りで割って中身を取り出します。外見は直径6-8センチ位です。

これが外皮を外して取り出した殻付きの榛です。この殻を外すとおいしい実になります。

殻付きで1センチ弱、胡桃割りで殻を外すと6-8ミリです。殻は固いし小さいので、上手に殻を壊すのは手間がかかります。でも、殻からでてきた榛の実はそのままでもおいしいです。でもこれを弱火で軽く煎りますと、香ばしく実においしいのです。

 今年はあまり山に行けないうちに山の家シーズンは終わりになりそうですが、榛の実を噛みながら来年はもっとたくさん山の生活を楽しみたいなと思いました。

そして渋谷駅

 さて、渋谷経由で外苑前駅に出かけた日のことです。検索結果の指示通り、JR山手線新宿駅から渋谷で降り、中央東口改札を目指しました。検索図では大変明瞭だったのですが、平面図と三次元空間でみる実物の落差は大きく、やはり戸惑いました。役になったのは頭上のサインボードで、銀座線とある方向に歩いていきましたら、思ったよりは歩きましたが、迷うことなく銀座線の改札口につきました。渋谷駅構内はまだまだ工事中で、いったん山手線の改札口を出て、広い通路からショッピングをして、それから目的の改札口に行くという選択肢は見つけられませんでした。多分違う改札口に出れば可能だったのでしょう。でもまあ、到着したのですから良し、としなければなりません。

 外苑前駅の渋谷寄りの改札口で待ち合わせ、近くのイタリアン・レストランでおいしい食事をしました。メインディッシュは大きな真鯛でした。イタリアンで真鯛の料理は初めてでしたが、大変に、大変においしい。おまけに頭に近い部位でしたので、大きい「鯛の鯛」を見つけました。(もちろんきれいにして持ち帰りました。)

 そのあと散歩をしました。かつてならここはよく友達とぶらぶら散歩をしたところだったのです。渋谷から歩いてもすぐのところです。町並みはだいぶ変わっていましたが、ぶらぶら歩く気分はかつてと変わっていませんでした。

 

 

大通り沿いに神輿が鎮座ましましていました。友人が「写真を…。よかったらお神輿の周りに…?」とお願いしましたら、神輿の写真は喜んでの様子でしたが、中に入るのはちょっと、とはにかんで辞退されました。

 しばらく歩いて行ったら、お神輿が端座し、その周りをご町内の皆さんが話をしていました。そういえば、少し前、西荻窪でも3年ぶりで神輿が集まり、50代、60代のおじさんたちが子供のようにはしゃいでいました。うれしかったのですね。この辺のご町内の皆さんのうれしさが伝わってくるようでした。

青々と空に向かって背筋を伸ばす姿は見事です。ここまで育つには何十年もたったことでしょう。人間よりも何年も何年も長生きする木々は、周辺の姿の移り変わりをたくさん見てきたことでしょう。人間と話が通じたら、どんな話をしてくれるのだろうかと、しばし思ったことでした。

 神宮の並木もよく見えました。まだ葉は緑で青々としていましたが。この付近のどの辺の木々が伐採されるのかわかりませんが、無残なことだと思いました。いろいろ事情はあるのでしょうが、せっかく大きくなった木々を…と思いました。かつて読んだいくつかの木々にまつわる話を思い出し、木々の悲鳴が聞こえるような気がしました。

途中で少しベンチに座っておしゃべりをしました。大きな木々が木陰を作って、蒸し暑い日でしたが、涼しい風を送ってくれました。この木々も残れますようにと心から思いました。

 絵本館の近くで、車が何台も長い列を作っている光景を見ました。いったい今は何が企画されているのかしら、と思ったのですが、どうやら乗車している方々の服装や持ち物から、これは神宮球場に野球の試合を見に行くのだということがわかりました。皆さん、絵本館の駐車場に車を止めておきたいのですね。そういえば、左門町に住んでいた友人のお母様はヤクルトの大ファンでした。

 そこから信濃町まですぐそこです。しばらくぶりに外苑周辺を散歩して心楽しいひと時でした。

ああ、渋谷駅

 渋谷駅は18歳で上京して以来、数年前まで馴染みの深い駅でした。学部学生のときは、新宿から五反田あるいは品川駅に行く通学路線の途中駅でした。当時は新宿駅のホームに乗客が溢れ、満員電車に乗るために後ろから押し寄せる乗客とそれを押して中に詰め込もうとするアルバイト(?)のおかげで何とか乗り込めました。手荷物は放しても下に落ちることがないくらいの混み方でした。不思議なもので、これ以上乗れないと思うのに、次の駅に行くと、何とか少なからぬ乗客が乗れるのです。いっぱいに入れたお茶筒をトントンと軽くたたくとまた隙間ができることを思い出しました。人間がお茶筒のなかのお茶みたいなもののように思えました。渋谷駅に来るとかなりの乗客がおります。それ以降はのんびりガラガラ電車で一息ついたものでした。

 大学院時代は渋谷から東横線に乗り換えて都立大学駅で降りました。そういえば、学芸大学も都立大学も、残るは駅名だけですね。JRから東横線への乗り換えは便利で、各駅はあまり混むこともなく、のんびり乗ったものでした。就職先が横浜でしたので、渋谷から横浜まで、(当時の東横線は各駅でも急行でも10分くらいしか違いませんでしたので)各駅でのんびり出かけていきました。

 就職して間もなく横浜駅の工事が始まり、40年ほどになる今もって、完成していないようです。続いて渋谷駅の工事が始まりました。何より不便になったのはJRから東横線への乗り換えで、JR渋谷駅の改札口から東横線の改札口まで数分かかるのです。非常勤先の駒澤大学へは、何とか最短の近道を見つけましたが、東横線は最悪でした。

 以来、渋谷駅で乗降するのを諦めました。横浜へ行くときは、自宅から一駅歩き、荻窪駅から丸ノ内線新宿三丁目まで行き、そこから副都心線に乗り換えて横浜まで行きます。30年以上馴染んでいた渋谷駅周辺は静かで楽しみ多いところでしたが、私の歩けるところではなくなっていきました。これは寂しく残念なことでした。

 ところがです。ついこの間友人の誘いで、銀座線外苑前駅で待ち合わせました。この路線は上京して以来、数知れず利用していましたが、迷路のようになってしまった今の渋谷駅からの乗り換えが少々不安でした。それで「渋谷、銀座線、乗換え」で検索をしたところ、まあ、なんとご親切に、大変わかりやすい説明を見つけ、心強くしました。例えばJR山手線外回りからは何両目の何番ドアに乗るとよい…という説明があるのです。しかも以前より便利になっているのです。この分では、渋谷駅も利用しやすくなって、また乗降できるかな、と希望も生まれてきました。

 私の知り合いの中にはパソコンもスマホもダメという人が少なからずいますが、私自身が使いこなすレベルからは遥かに程遠いのですが、年齢を重ねたら、パソコンやスマホは使えると生活しやすいと思いました。というわけで、IT機器苦手の私も、何とかできる範囲で利用している日々です。

 

 

鮨屋の貝殻

友人に誘われてお寿司を抓みに行きました。友人の行きつけのお寿司屋さんです。最初は友人のお母様が亡くなられたときに、そのご供養にと私が誘ったときに勧められて行きました。彼女は仕事の帰りにちょっと寄るご贔屓のお店がいくつかあって、このお寿司屋さんもその一つです。何かを少し抓んで、好きなお酒を少し飲んで帰宅するのが楽しいのだそうです。

その日は私も仕事帰りで、「ではちょっと一杯」と二人で出かけていきました。空いていればカウンターの正面ではなく横の席に座ります。そこからは包丁さばきが見られて楽しいのです。友人は親しくなった寿司職人と「この魚は・・・?」などと話しをしながらお酒やお寿司を注文します。私は友人にお任せですがこの席は大好きです。沁一つない俎板の上で手入れのいい包丁をさばく所作もきれいですし、それをじっと見据える真剣な眼差しもいいものです。

寿司種そのものも魅力的です。特に貝類には魅了されます。鳥貝の内側の赤みがかった臙脂色、鮑の内側の螺鈿細工のように光る青やピンクの色合いには溜息が出ます。友人が「貰って帰れば?」というので、「貰って帰ってもいいですか?」と聞きましたら、「いいですよ、どうせ捨ててしまうものですから。何なら他の貝もどうですか。」というわけで、栄螺もいただくことにしました。「鳥貝は割れやすいし、手を切ると痛いので気をつけてくださいネ。それから虫が出るといけないので帰ったら煮沸消毒してください。」といいながら包んでくれました。

手前が鮑、後ろに栄螺と鳥貝があります。二枚の鳥貝のうち、手前が内側、後が外側です。内側の赤みの色は煮沸する前はもっと鮮やかできれいでした。手前の鮑ももっと色の濃い美しい艶がありました。写真ではこの光りながら輝く色がでません。寿司職人は毎日こんなきれいな色や形を見ながらお仕事をしているのですね。

「煮沸すると白っぽくなっちゃうんですがね。」の言葉にがっかりしましたら、「時間がたつとだんだん色褪せてくるから、そうしたらまた食べに来て、新しいのを持っていってください。」と慰められ、「そうだ、そうだ、」と思いました。

 友人の話によると、このお店には、毎日やってきて、さりげなく寿司種を抓みながらお酒を飲んで帰っていく50代後半くらいの女性がいるそうです。友人は「素敵だなぁ、格好いいなぁ」と思って真似をしたいのだそうですが、「毎日は無理だなぁ、まあ、月に1回かな、」と言っていました。

コロナが少し収まって、たまにはこんな時間を過ごすことが出来るようになったのですね。貝殻と一緒に幸せな心持ちで帰宅したことでした。

 

赤、白、黄色

桜があっという間に散って葉桜になりました。昔、長閑だった頃の新宿御苑の桜吹雪は素晴らしかったなぁ、などと思いながら葉桜の下を歩きました。葉桜の葉の色もいいですね。

 帰宅しましたら、鉢に紫色のヒヤシンスがきれいに咲いていました。

白とピンクのヒヤシンスは早くに咲いてくれたのですが、紫色は最後に咲きました。数年前に深大寺で臘梅の苗木を買ったのですが、植木屋さんが紫色のヒヤシンスをおまけにつけてくれました。これは娘の家に行ったのですが、引越や建築の間に消えてしまいました。また我家で咲いてくれて嬉しいです。

 その傍らに、なんとチューリップがきれいに咲いて風に揺れていました。昨年、球根を買いに行ったとき、かつての庭を思い出してチューリップを求めました。幼稚園で歌ったチューリップの歌の「あか、しろ、きいろ」を思い出して、この三色を買い、俄作りの花壇や鉢に植えました。 

たくさん球根があったので、泰山木の下に、まずは赤、白、黄色と1本ずつ植えてみました。ちゃんと色分けできるかなぁと心配でしたが、成功でした。

 はじめは白がたくさん開き、次に黄色が混じり、でもちょっと寂しいな、と思っていたらワッと赤いチューリップが後から咲きました。

俄作りの花壇に咲きました。チューリップは、今はいろいろ種類も色も多く、悩みましたが、まずはオーソドックな形にしました。

 ふと、大分昔読んだ団伊久磨さんの『好きな歌、嫌いな歌』を思い出しました。チューリップについて何と書かれていたか思い出せないのですが、私の好きな、というより馴染んでいた歌が数多く嫌いな歌に分類されていたので吃驚したのです。「ソソラソラソラ・・・」で始まるウサギのダンスや、「虫の声」だったでしょうか。「芸がない」というのが主な理由だったと思います。なるほど理屈なのですが、この歌が私は好きでした。今も好きです。まあ、好き嫌いに必ずしも理由はないかもしれませんが。

 中に入ろうと思いましたら、ピンクのカタバミが一群れ。この花が好きでした。

子供の頃、庭のあちこちにピンクのカタバミと黄色のカタバミが咲いていて、この花といっぱい遊びました。しばらくぶりに見るカタバミは昔の形で、懐かしく嬉しく思いました。昔好きだったガーベラや芝桜が園芸品種になって巨大化して、さびしかったのですが、昔そのままのカタバミで本当に、本当に幸せになりました。

 この花は今ももちろん好きですが。ハート型の葉は噛むと独特の酸味がありました。摘まもうかと思ったのですが、やめておきました。カタバミさんのおかげで、暫し幼稚園生に戻った気分で、幸せになりました。