東京ジャーミイ

 老化を心配してくれるありがたい友人に誘われて、代々木上原にある東京ジャーミィを見に出かけました。友人が通勤途中で窓から見えるモスクが気になり、散歩がてら見にいきましょうと声を掛けてくれたのです。

通勤途中で電車の窓から見える建物はずっと気になっていたそうです。初めて見る姿は美しく優雅で洗練されていて、何と素晴らしいモスクなのだろうと思いました。

 50年以上も昔、代々木上原は数回サークル活動で出かけた所でした。長閑な住宅街でした。いつの間にか都会的な街になっていました。かつてどこを歩いたのか、今となってはわかりません。モスクは井の頭通り沿いにありました。ジャーミイというのは大規模なモスクのことで、「人が集まる場所」という意味だそうです。

 初めて見る大きなモスクは洗練された美しい、エレガントで荘厳な姿でした。暫くはただその美しい姿を眺めました。日本では一番大きなモスクだそうです。美しい天井の繊細で優美な模様がスマホではきれいに撮れません。

白とチャコールグレーの彩りや細かい模様は撮れません。いつまで眺めていても飽きることのない美しさです。

東京ジャーミイの始まりはロシア革命の時代に遡ります。革命を逃 れて日本へ避難して来たトルコ人たちが礼拝所を求め、1938年に出来たのが東京回教礼拝堂です。その後、老朽化のため1986 年に取り壊されて2000年に新たに東京ジャーミイ・ディヤーナトトルコ 文化センターとして生まれ変わったそうです。新しい礼拝所の設計は、現代トルコ宗教建築の代表的建築家のムハッレム・ヒリミ・シェナルプで、トルコ本国から約100人もの技術者や工芸職 人が来日し、建物本体や内装工事に従事したとのことです。

 白地に青、赤、金、チャコールグレーの色彩の模様や文字が施された建物の壁面、天井はこの上なく洗練され、美しいとしか、言葉がありませんでした。思わず中世の教会史に登場するコンスタンティノープル(現イスタンブール)のハギア・ソフア大聖堂を連想してしまいました。ビザンチン教会とローマカトリック教会が決裂したドラマティックな経緯を思い出し、約970年の月日を隔てて、その子孫が美しい姿を東京の地に見せてくれたような気がしました。

晴れた青空を背景に、金箔をふんだんに施された屋根や壁の飾りが光に映えてキラキラ輝いていました。モスクに金は優美で美しく、神々しく心に残りました。

 心を残しながら帰途につきました。雨の多い週ということでしたが、その日は初夏の暑さで、バス停までの道、時折通り抜ける風が心地よく感じました。

道沿いの垣根に、なんともう躑躅が咲いていました。

 

きれいに風に揺れて咲いていました。垣根の躑躅も種類はいろいろですが、この色の躑躅はいいですね。

こちらの躑躅は其処此処にたくさん花開いていました。まだ満開ではありませんが、これからはしばらく躑躅ですね。

 今年の花は皆急ぎ足です。いまだ忘れかねている昨年の暑い夏がもうそこまで来ているのでしょうか。どうかもう少し、花の春を楽しませんて下さいと願ったことでした。

 帰りのバスは新宿発武蔵境行きです。このバスは1日に2便しかありません。来ないかもしれないと思いつつ待ってましたら、5分遅れでやってきました。乗ったときはガラガラでしたが、西永福で降りたときはかなりの乗客がいました。この時刻表を知って乗ってくるのかどうかわかりませんが。西永福から西荻窪まで歩いて、その日のお散歩はお終いです。万歩計によれば、1万歩以上でした。上出来です。

 

 

 

 

 

 

 

 

花の春

 世相は同じですが、季節は確実に移っているようです。東京の桜も開花し、お花見の 時期になったのですね。思うこと多い日々ですが、季節を忘れずに咲く花に励まされます。

花が終わるとそのうちに実がなります。大きな黄緑色の実です。これも食することが出来るようで、今年は頑張ってみようかな、と思っています。

 木瓜はしばらく前から開きかかっていましたが、今朝は満開になっていました。家の木瓜はこの赤と、赤と白の斑のと2本ありますが、斑の方はあまりきれいに咲かないうちに散ってしまいました。残念です。

花ニラの花を見たのは東京に来てからです。実家の場所は国道沿いで、道端や畦道に 咲く花はあまり知りませんでした。きれいだと思いました。たくさん、たくさん咲くとうれしいです。でも一輪挿しでも花瓶でも家の中に飾るとすぐに弱ってしまいます。やはり野の花は野に咲くのがいいのでしょうね。

 それから必ず暖かくなると咲くのが花ニラです。まだ、あちこちにチラホラですが、もう少しすると、庭中咲き乱れます。これは50年以上も前に義妹が1本庭に植えたのが最初で、以来繁殖力が強く、庭中のあらゆる所に咲き、風に揺られ、目を楽しませてくれました。もう少しすると花大根も混じります。

 

 昨年、球根を植えた鉢が芽を出し、葉を伸ばし、花を咲かせ始めました。一番先に白いヒヤシンスが開きました。終わりかけましたらピンクのヒヤシンスが咲きました。

ヒヤシンスは紫と思っていましたが、いろいろな色のヒヤシンスがあるのですね。今年は白と濃いピンクのヒヤシンスを植えてみました。

義父が生きていた頃、春にはガレージから縁側までのアプローチに沿って、クロッカス、ヒヤシンス、ムスカリが咲きました。いつの間にか手入れが悪くてなくなってしまいました。

 

 それから一鉢に (理想的には) 次々と花を開かせることになっている大きな鉢もストック、パンジーに加えてムスカリ、ヒヤシンス、チューリップが開きました。植えた家人は、はじめてにしてはまあまあだと、一人満足しています。

ストックやパンジーがこんなに長持ちするとは思いませんでした。はじめはパンジーとストックだけでしたが、ムスカリとチューリップが加わって華やかになりました。

 

 この家の男たちは(植木や花の世話が不得手な私が言う資格は全くないのですが、)あまり花を育てるのは上手ではないようです。家人は花が好きで良く植えますが、なかなかうまくいきません。亡くなった義母は「特に花の世話が好きなのではないけれど・・・」といいながら、毎年見事に花を咲かせ、冬を越させ、庭にはいつもきれいな花がいっぱい咲いていました。昨年久しぶりに庭に球根を植えてみましたが、花が咲いて本当に嬉しいです。

 遅ればせながらもこれから少しずつ花を咲かせていったら、見る度にかつて一緒に笑った、または笑えたであろう二世代、三世代前の家族たちを思うことだろうと思います。50年前に植えた福寿草も今年もたくさん咲きました。年月というものはたいしたものです。           

春初め、追加

前のブログにいれよう思っていたのですが落としました。娘のお内裏様です。義母のお雛様がありましたし、狭い家ですのでどうしようかと思っていたのですが、ともかくもお雛様を見ようと出かけていきました。眺めている間に雛壇のあるお雛様はやめとこう、場所をとるのも、・・・などと思っていたら、可愛いお内裏様がこちらを見ていました。これは私を招いていると思って求めてきたのでした。

お内裏様だけですが、「灯りをつけましょ・・・」のメロディが流れるオルゴールが付いていました。子供たちはこれが好きで何度も繰りかえし鳴らしました。(オルゴールの音色が繰りかえされるのは、大人にはちょっと辟易なのですが。)今は孫が喜んで何度も何度も繰りかえし鳴らします。子供の好きなメロディなのか、音色なのか。

 昨日、本屋で岩波文庫の『日本唱歌集』を見つけて買ってきました。あったはずなのですが、いつの間にか消えてしまっていました。雛祭の歌は『日本童謡集』の方だったのかしら。これもどこかに紛れこんでいます。何とか探そう、と思いました。

 

 

春初め

2月はあっという間に過ぎてしまいました。かつて年初は3月から始まり、2月は最後の月なので2月は日数が少ないと聞きました。28日か29日ですが、29日は閏年ですから4年に1度です。義父の命日は2月29日ですから、本命日は4年に1回です。2月末になると当時の頃が思い出されます。

1月末から、近所の家の庭には梅が咲きます。我家の梅はこの辺では一番遅く咲きます。義父の具合が重篤になっていく頃、2月も20日過ぎにやっと紅白の梅が咲きました。義祖母が紅白の梅を持たせて義父の見舞いに行ったのが最後でした。梅の花が間に合って良かった、と思いながら、病院を後に家路につく足取りは重かったです。今年も梅が咲きました。白梅は改築の時になくなり、数年前に見つけた白梅も枯れました。今年は赤い梅だけですが、近所より遅れて花を開き始めました。

かつての庭とはだいぶ変わりましたが、昨年から少しずつ庭に花の球根を植えました。ストックとパンジーの間から、水仙が出てきました。他に水仙の鉢もつくりました。ヒヤシンスも顔を出しました。きっともうすぐ咲くことでしょう。チューリップはもうちょっとのようです。

水仙がきれいに咲きました。少し前に大変寒い日が続いたので、可哀想だと思って家の中にいれました。するとどんどん背が伸びました。地面で育った水仙とは10㎝違います。次の年にも咲かせることが出来るよう、頑張ってみたいと思います。

少し前にお雛様を飾りました。節句の祝いを律儀に、楽しく繰りかえしてきた年月が思い出されます。ご馳走の献立は毎年同じです。五脚あるお雛御膳は、今はお内裏様のために二脚だけ出します。お赤飯、肉団子、焼魚、分葱の饅、卵焼き、お吸い物は毎年同じです。後はその時の顔ぶれでメニューが追加されます。

義母が生まれたときに揃えたというお雛様です。ということは、このお雛様は100年位昔のものなのですね。お顔が大分今のものとは違うようです。かつてはもっと雛壇が多かったそうですが、今はコンパクトにこの通りです。小さくてもなかなかよくできていて、箪笥は引き出しが開きます。

お雛飾りの時に掛ける掛軸です。家人の祖父母の時代、お向かいの小説家のご夫婦と仲良しで、ある年、皆で絵を描き寄せ、表装したものです。戦前のことでしょう。日本の内外では焦臭いことも多かったはずですが、これを見ているとまだ呑気に過ごすことが出来た日々だったのだと思います。そういえば、画紙や岩絵具、筆などの画材はまだとってあります。描いてみようかな、などと時々思いますが・・・

あちこちで雛壇飾りが催されていると聞きます。旅先でそうしたお飾りを眺めて歩いたら楽しいことだろうと思いました。

 

冬の朝

灼熱の今夏が信じられない程、年明けてからの寒さは身も心も震えました。先週、先々週の朝晩の寒さを思い出しますと、暖かい部屋の中にいても震える思いです。

郷里の友達から便りが来ました。「東京も寒いでしょうが、こちらの寒さはハンパないょ!」とありました。そうです。東京も寒いけれど、あちらの寒さは、本当に寒いのです。暮から正月頃に「綿虫」とか「雪虫」と呼ばれる白い雪片に似た虫がフワフワと飛びます。そのころになると、男体山から吹き下ろす山颪がそれは、それは、寒いというより痛いのです。雪も降りますが、日本海側に比べると雪はたいしたことはありません。雪の降らない風の強い日より、雪が積もって風が止んだときの方が暖かい気がします。上京したころには便利なホッカイロはありませんでした。登校時にはオーバーのポケットに白金懐炉を入れ、手袋をし、厚い靴下を履き、爪先には唐辛子を入れました。それでも感覚がなくなり、指先や爪先が痛くなるほど凍えました。手の甲、頬、指先や耳朶には霜焼けが出来、室内で暖まると痒くなりました。アカギレも切れました。

寒冷地でしたから、小学校では冬休みの後、大寒のころに「寒休み」というお休みが一週間か10日間ほどありました。その代わり夏休みが少し短くなるのです。(ほどなくこの制度はなくなったようですが。)夏休みや冬休みの宿題はたいした量ではありませんでしたが、寒休みの宿題はたくさんありました。日割り計算をして、1日に終わらせる量を決めてなんとか最終日に終わりました。計画を立てて何かをするというのはその時に覚えました。ただ、日数が長くなりますと計画通りにはなりません。一週間単位を4回で一ヶ月、一ヶ月を12回で一年という計画の立て方は、その時には思い付きませんでした。

当時の暖房設備は、事務所は石油ストーブがありましたが、居住部分は炬燵と火鉢ですから部屋全体はなかなか暖まりません。我家は障子や襖を閉め切るということはせず、年中開け放しておりましたので、家の中も外と同じ気温です。馴れというのはあるにはあり、寒い、寒いといいながら春を待つのですが、今思えばやはり寒かったです。この年になり、東京や横浜の暖かさに馴れてしまいますと、もう郷里の冬は住みきれないでしょう。それを思うと、ウクライナの人たちが煖房なしで冬を耐えている、日本の東北、北陸など各地で寒さと雪のために難渋しているというニュースは胸が痛みます。

この冬、関東地方は例外でしたが、日本各地で大雪が降り、その地で暮らす方々には大変に苦労の多いことでした。高速道路も(恐らくは一般道路も)渋滞や事故が相次ぎました。暖かい部屋にいるのが気が引けるほどの難儀でした。70代、80代以上の方が屋根の雪下ろしをしなければならないというのは、とんでもない、拷問にも似た苦難だと思います。何年もこうした状態が続いている状態がなかなか改善されないことに、当地の方々をお気の毒に思うだけでなく、この状況に怒りを覚えます。若い人たちがいた頃には彼らが雪下ろしをしたのでしょう。今、高齢の方ばかりが雪深い地で暮らし、雪下ろしの担い手がいないために、若い人たちでも体力のある仕事を高齢者がしなければならなくなり、我家の雪だからと、疲れ切った身に鞭打って80代以上の高齢者が屋根に登るのでしょう。そのために毎年事故が起こり、亡くなる方がいらっしゃることが、歯がゆく悔しいのです。国や自治体も努力しているのかもしれませんが、もっと積極的に関わって、雪下ろしのために亡くなる人がいなくなるような方策も含め、組織的になんとかする手立てはないのだろうかと、ニュースを見る度に思います。体力のある世代が雪かき雪下ろしを引き受ける仕組みが出来ないものだろうかとあれこれ思います。

今日から二月です。立春は間近ですが、まだまだ寒い日が続きます。近所では水仙や梅が咲いています。雪の中でも凜と咲く梅の花のように毅然といきていきたいものです。日も少し長くなり、夜明けが少し早くなりました。光の春です。光の春から花の春に、そしてあたたかい春になるのを、ひたすら待ちわびます。東京よりも、さらにまだまだ寒い日が続く、遠い地で難儀している方たちが、なんとか10年に一度というこの冬の雪や寒さを越えていけますように。どうかご無事に、お健やかに過ごしていけますように。

夭折の歌人 笹井宏之 

 この冬籠もりの間、笹井弘之さんの歌集をゆっくり、ゆっくり味わいました。歌集は担当しているカルチャーセンターの年末最後のクラスの後で受講生からお借りしました。自由英作文で笹井宏之さんの短歌を紹介して書かれた内容に興味を持ちました。説明を聞いて一層興味を引かれました。それで歌集を貸して下さったというわけです。以来、毎日少しずつ頁を捲っては、一首、一首心深く味わいました。一首、一首、言葉が心に落ちるたび泣けてきました。このような短歌に出会ったことがなく、その感動をどう言葉に表して良いのかわかりませんでした。毎日、頁を繰っている間に、心が涙でいっぱいになりました。そして、その感動をブログで言葉にしたいと思いました。

 最初の頁の歌からすっかり圧倒され、身動きが取れなくなり、何と表現して良いのか言葉も無く、大変な衝撃と感動を受けました。そのうちに、泣けてきたのですが、その理由が、哀しいのか、嬉しいのか、寂しいのか、感激しているのか、言葉にできませんでした。

 

 ふわふわを、 つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした

 

 からだじゅうすきまだらけのひとなので風の鳴るのがとてもたのしい

 

 奪われてゆくのでしょうね 時とともに強い拙いまばゆいちから

 

 はじまりのことばがゆびのあいだからひとひらの雪のよう落ちた

 

 さよならのこだまが消えてしまうころあなたのなかを落ちる海鳥

 

 えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

 

この短歌は、「歌集 ひとさらい」(2011)と「歌集 てんとろり」(2011) に収録されていたものです。解釈や解説は到底及ばない、ただ、歌の魂を強く感じるばかりでした。

 一つ一つの言葉が魂からふわふわと流れ出てくるような、その言葉がみな魂になって、永遠の宇宙を、深い大海を漂っているような印象を受けました。歌からは細かい、細かい、繊細な直感と感触が、時に針のように、時に霧か霞のように、時に薄い花びらのように、漂い流れてくるようで、気がつくと心にも、頬にも、涙が流れました。こんな思いははじめてといっていいくらいの不思議な情緒でした。

 歌によっては、漢字とひらがなを使い分けているようです。「えーえんとくちからえーえんと・・・」は、はじめ、「エーエンと口から」と感じていましたが、理性的に読めば「永遠解く力」なのですね。でも、ひらがなで「えーえん」とありますと、これは泣く声の「エーエン」でもあるような気もしてきます。掛けているのかもしれません。永遠を解くことと魂が泣くことの間になにかの繋がりがあるのかもしれません。

歌から流れくることばを心の中で転がしておりますと、しんと静かな宇宙全体の中に一人取り残されたような、孤独で寂しい、それなのに愛情に包まれ、ほんのり幸せで暖かい、言葉では言い表しがたい不思議な気持ちになってきます。

 こんな短歌があるのですね。笹井宏之さんは人生の半分ほどを難病のため思うに

まかせない日々を過ごし、26歳の若さで夭折されたそうです。笹井宏之さんの短歌を何と言っていいのか、言葉が足りませんが、笹井宏之さんの短歌に出会えて心から幸せだと思いました。

お正月

 今年の松飾りも無事に取れて、新しい一年が動き出しました。関東のお正月らしい、風の冷たいお天気の良い冬日和でした。孫は3日続けて近くの原っぱ公園に凧揚げにいきました。

 お正月の準備は暮れから始まっています。大晦日の年越し蕎麦をいただく一方で、お正月の用意もいつも通りにいたします。あれこれお節料理の準備をししながら、かつてこの家に4世代の家族が揃っていたときの買物や準備などを思い出します。

 仕事納めの後、男たちは庭やあちこちの掃除です。台所は女三人がおしゃべりをしながら料理です。義祖母は和食専門、義母は肉類、私は栗金団と昆布巻きです。この作業が私は好きでした。甘藷は金時芋です。最近はたくさんの種類が出ていてどれもおいしいのですが、やはり、蒸かし芋も、焼き芋も金時芋が好きです。金団も、勿論、金時芋です。芋を濾すのとゆっくり煉りあげる作業は一番時間がかかります。辛抱強く続けていますと、どんなに時間がかかる作業も終わりがきます。出来上がったときの味見が上手くいくと幸せになります。単純作業は性に合っているようです。草むしり、雑巾縫い、切り出しナイフで鉛筆を削るなどといった作業は飽きが来ません。昆布巻きは吉祥寺の乾物屋さんで買う身欠き鰊と日高昆布、それから干瓢です。昆布と鰊が材料ですから、どう作っても美味しくできます。

 義祖母でなければ出来ないのは、お雑煮の味付け、数の子の味、膾の味です。塩引きや新巻を丸ごと一匹でいただいていた頃には、鮭の頭と檸檬と玉葱で作る氷頭膾は家人の役割でした。他に黒豆、田作り、蒲鉾、数の子、伊達巻きなどなど。お正月の三日間、食卓にはいわゆるお節料理が並びます。お屠蘇は形ばかりです。日本酒でゆっくりとお節をいただきます。大体関東風ですが、義祖母たちの時には、膾もお雑煮も義祖父の言葉にしたがって本間家風にアレンジされていたそうです。義母はそれをそのまま継承しました。仙台出身の義父は養子ではありませんが妻の両親と暮らしてくれたそうで、義祖母や義母の努力も適わず、心ならずも仙台風のお雑煮は作れなかったようです。私たちの代になって五色膾は紅白膾になりました。かつてお節はほとんど家で作っていましたが、今は、昆布巻き、栗金団、伊達巻き、二色卵などは口に合うものが見つかり、買ってきます。今、台所の主は家人。洋食の時はシェフ、和食のときは花板さんです。正月料理の得意は雑煮と膾。この日は隣家に引っ越してきた娘の家族も一緒に、皆でニコニコいただきます。

 7日は七草粥。今は七草セットが売られています。簡単です。かつて家で七草は揃わず五草くらいで、他はあり合わせの野菜になりました。それが終わると15日の小豆粥です。この日は鏡餅でお汁粉をします。最近は丁度いい大きさの鏡餅を見つけるのが難しくなりました。鏡餅の中に切り餅が真空パックになって入っているのを見て、なるほどと思う反面、やはり普通の鏡餅がほしいです。

 これで一応の正月行事は終わりです。大晦日から15日までのそれぞれに日本酒、ワインがお供をします。いや、お酒とワインにこちらがお供をします。お正月にいただくお酒の銘柄は大体決まっています。ワインは私の好みを知っている方がこの時期になると送って下さり、有難いことこの上なしです。

 怠け者の節句働きとはよく言ったもので、お正月だけでなく、年中行事はそれぞれ楽しくその準備も楽しいです。夕べ、義父の遺品のなかにあった「多ヶ谷 家齢記並續書」を捲っていましたら、一年中あれやこれやいろいろ細々とした行事があったようです。これを全部行っていたら相当手間暇かかるなぁと思いました。よほど平和でなければこうしたことは出来ないのではないかと思います。年中行事をするかしないかではなく、そうしたことができるくらい世の中が平和であると良いのになと思いました。

 昨年はあまりにも辛いニュースの多い一年でした。今年は少しでも平和で穏やかな一年でありますようにと、心から願いました。