冬の朝

灼熱の今夏が信じられない程、年明けてからの寒さは身も心も震えました。先週、先々週の朝晩の寒さを思い出しますと、暖かい部屋の中にいても震える思いです。

郷里の友達から便りが来ました。「東京も寒いでしょうが、こちらの寒さはハンパないょ!」とありました。そうです。東京も寒いけれど、あちらの寒さは、本当に寒いのです。暮から正月頃に「綿虫」とか「雪虫」と呼ばれる白い雪片に似た虫がフワフワと飛びます。そのころになると、男体山から吹き下ろす山颪がそれは、それは、寒いというより痛いのです。雪も降りますが、日本海側に比べると雪はたいしたことはありません。雪の降らない風の強い日より、雪が積もって風が止んだときの方が暖かい気がします。上京したころには便利なホッカイロはありませんでした。登校時にはオーバーのポケットに白金懐炉を入れ、手袋をし、厚い靴下を履き、爪先には唐辛子を入れました。それでも感覚がなくなり、指先や爪先が痛くなるほど凍えました。手の甲、頬、指先や耳朶には霜焼けが出来、室内で暖まると痒くなりました。アカギレも切れました。

寒冷地でしたから、小学校では冬休みの後、大寒のころに「寒休み」というお休みが一週間か10日間ほどありました。その代わり夏休みが少し短くなるのです。(ほどなくこの制度はなくなったようですが。)夏休みや冬休みの宿題はたいした量ではありませんでしたが、寒休みの宿題はたくさんありました。日割り計算をして、1日に終わらせる量を決めてなんとか最終日に終わりました。計画を立てて何かをするというのはその時に覚えました。ただ、日数が長くなりますと計画通りにはなりません。一週間単位を4回で一ヶ月、一ヶ月を12回で一年という計画の立て方は、その時には思い付きませんでした。

当時の暖房設備は、事務所は石油ストーブがありましたが、居住部分は炬燵と火鉢ですから部屋全体はなかなか暖まりません。我家は障子や襖を閉め切るということはせず、年中開け放しておりましたので、家の中も外と同じ気温です。馴れというのはあるにはあり、寒い、寒いといいながら春を待つのですが、今思えばやはり寒かったです。この年になり、東京や横浜の暖かさに馴れてしまいますと、もう郷里の冬は住みきれないでしょう。それを思うと、ウクライナの人たちが煖房なしで冬を耐えている、日本の東北、北陸など各地で寒さと雪のために難渋しているというニュースは胸が痛みます。

この冬、関東地方は例外でしたが、日本各地で大雪が降り、その地で暮らす方々には大変に苦労の多いことでした。高速道路も(恐らくは一般道路も)渋滞や事故が相次ぎました。暖かい部屋にいるのが気が引けるほどの難儀でした。70代、80代以上の方が屋根の雪下ろしをしなければならないというのは、とんでもない、拷問にも似た苦難だと思います。何年もこうした状態が続いている状態がなかなか改善されないことに、当地の方々をお気の毒に思うだけでなく、この状況に怒りを覚えます。若い人たちがいた頃には彼らが雪下ろしをしたのでしょう。今、高齢の方ばかりが雪深い地で暮らし、雪下ろしの担い手がいないために、若い人たちでも体力のある仕事を高齢者がしなければならなくなり、我家の雪だからと、疲れ切った身に鞭打って80代以上の高齢者が屋根に登るのでしょう。そのために毎年事故が起こり、亡くなる方がいらっしゃることが、歯がゆく悔しいのです。国や自治体も努力しているのかもしれませんが、もっと積極的に関わって、雪下ろしのために亡くなる人がいなくなるような方策も含め、組織的になんとかする手立てはないのだろうかと、ニュースを見る度に思います。体力のある世代が雪かき雪下ろしを引き受ける仕組みが出来ないものだろうかとあれこれ思います。

今日から二月です。立春は間近ですが、まだまだ寒い日が続きます。近所では水仙や梅が咲いています。雪の中でも凜と咲く梅の花のように毅然といきていきたいものです。日も少し長くなり、夜明けが少し早くなりました。光の春です。光の春から花の春に、そしてあたたかい春になるのを、ひたすら待ちわびます。東京よりも、さらにまだまだ寒い日が続く、遠い地で難儀している方たちが、なんとか10年に一度というこの冬の雪や寒さを越えていけますように。どうかご無事に、お健やかに過ごしていけますように。