二年ぶりに里帰りをし、一人で家を守っている妹に会いました。二年ぶりですが、変わりなくホッとしたことでした。四方山話をした後、久しぶりに外に出て町内を歩いて見ました。青い空が光って、紅葉黄葉を過ぎた里山や雑木林に陽がさし、冷え冷えとした空気も、懐かしい冬の風の冷たさです。その日も冬晴れです。この頃になると、天気予報では、富士山を始め、各地の冬の山景色を伝えてくれます。私はそのたびに男体山を中心とする日光連山を思い出します。
郷里は日光街道と日光例幣使街道が合流する宿場町で、地蔵堂のある追分が宿場への入口で、宿が途切れる瀧尾神社までが町の中心です。追分地蔵堂から瀧尾神社の鳥居辺りまで歩いても10分位ですが、そこが街道筋の町並みです。宿には日光街道、例幣使街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道が集まり、かつては宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が21軒あったそうで、賑わった宿でした。
宿への入口になる追分地蔵堂には、高さ2㍍ほどの地蔵菩薩坐像が安置されています。かつてはこの後ろで朝鮮人参を育てていたそうです。そこから少し歩いたところに浄土宗のお寺、如来寺があります。如来寺は15世紀後半に建てられたそうです。16世紀中頃には境内に御殿があり、山門とは別に御成門があり、将軍が日光社参の休泊地として利用されたそうです。お寺に幼稚園が併設されており、近くの子どもはみなここに通いました。「杉の並木に陽が昇り、尊きお山遠く澄み、・・・」今でも園歌が歌えます。あの当時の歌声も思い出されます。
如来寺の隣が報徳二宮神社です。この地で没した二宮金次郎(二宮尊徳)は日光の社98村の開発事業に勤めました。今も二宮堀などが残っています。宿の途切れるところに今市の鎮守の瀧尾神社があります。8世紀に、日光男体山山頂に二荒大明神を祀った勝道上人が祀ったのが始まりだそうです。日光街道の中央部を右に折れると鬼怒川・川治に続く会津西街道とか下野街道といわれる街道です。
宿の外れの瀧尾神社を左に折れると小学校です。明治6年に尋常小学校になる前は寺子屋だったそうです。小学校は頭を街道に向けてF字形です。Fの頭の方は前庭、下は裏庭です。前庭では2000人の児童が毎朝ラジオ体操をしました。裏庭では大人が野球できるくらいの広い校庭でした。私が学んだ木造校舎も今は建替えられていることでしょう。F字の一番下の教室は他の教室より広く、戦時中は兵舎として使用されていたそうで、床下には大きな物入れがありました。ふっと小学校の校歌が浮かんできました。「二荒の高嶺、幸の湖(うみ)、落ちて流るる大谷川(だいやがわ)・・・」60年以上も前に歌ったのに覚えているものですね。
追分から瀧尾神社、そこから大谷川に架かる橋に向かってとことこ歩いて橋の中央にやって来ました。日光連山のお山がきれいでした。毎日毎日、見飽きることなく見ていたお山でした。中学校から電車通学になりました。学校は南宇都宮の鶴田駅から歩いて15分強の所にありました。下校時には校門を出てすぐの道から畦道に入り、県立の男子校を迂回して自動車道路に入ると、まもなく鶴田駅が見えてきます。かつては畦道から見える男体山を中心に日光連山を見ながら駅に向かったものでした。
畦道の両側は田畑で、遠くに人家が点在しておりました。夕方ともなれば、家の煙突から紫色の煙が立ち上り、周囲は柔らかい暮色に馴染んでいく風情でした。見上げれば夕焼け。茜色の空を背景に、県立高校の裏門の周辺にそそり立つ杉林が黒々とシルエットを作り、その向こうに日光連山が悠々と聳えていました。近くの山々は緑に、その背後の山々の重なりは、遠くなるほどに青紫から白みがかった青に、さらに薄く白い水色になります。その向こうに雄然と聳えるのが日光連山です。山は季節、天気、時刻によって、刻々と姿を変えます。
一番好きなのは冬の姿です。雪を頂いた所は銀色に、陽の当たるところは赤紫に、あたらないところは青紫に見えますが、天候、気候の微妙な異なりが、繊細に色や姿に表れます。いつまで見ていても飽きません。東京で暮らすようになって折々に思い出すのは、冬の朝の山、夕焼けに浮かぶ山です。久しぶりお山に再会できて、特有の寒さと共に故郷を味わいました。