10月10日

この日はかつて体育の日でした。祝日が月曜日に偏って、復活祭の移動祝日のように日付で祝日を覚えることができなくなって以来、祝う心が薄くなってきたように思います。私にとって、意識の中では、今も、成人式は1月15日、体育の日は10月10日です。

朝起きて、今日は10月10日と思ったとき、かつてはこの日が体育の日で、運動会もあちこちで行われたなぁ、たしか前の東京オリンピックも10月10日だったのではなかったのかなぁ、と思いました。今回のオリンピックが10月10日開催であったなら、熱中症で倒れたり、コンディションを崩したりということもあれほどではなかっただろうに、と思いました。

この前のオリンピックの時には、私の感覚としては、日本がやっと世界の国々の仲間になれた記念だったように思いました。「オリンピックは参加することに意義がある」といった言葉を無邪気に信じてもいました。オリンピックが終わった後しばらくしてからの、円谷選手の自殺は衝撃でした。オリンピックが国を背負って命をかける大会であったという一面の大きさに気づかされました。二位の銀メダルになったフィギャーの女子選手が(それだけでも素晴らしいと思いましたが、)「銀メダルでご免なさい」と言ったことがありましたが、それには言葉を失いました。

オリンピックは、その後、プロの選手の参加も認められ、多くの企業がオリンピックで勝利するために支援し、そのために多くの資金が投入され、開催時期もどこぞの国のご都合で決定されるようになりました。これは資金を多く投入できる国の選手が金メダルを取ることになるのではないか、選手強化、練習環境、器具、技術、衣服その他のことに、多くの資金が投入できる国が金メダルを取ることになるのではないか、ということに気がつきました。国のために金メダルを取る、ということに意味は何なのだろうか、と思いました。

そうした中でも、確かに、個々の競技に目を向ければ、心を打つドラマがあり、感動もあります。ただ、かつてのように、単純に楽しい、面白いで終わらないものがありすぎると感じるようになり、純粋にスポーツ競技を楽しむという気分にはなれなくなりました。金メダルが国家の威信にどのくらい役に立っているのかわかりませんが、そうした側面が前面に押し出され、それが当然といった風潮のオリンピックが素直に喜べなくなってきました。スポーツは単純にやって楽しい、面白い、見ていて楽しい、面白い、それが基本であって欲しいと思います。

今日はかつての体育の日です。運動音痴の私も、どこかの園庭や校庭から駆けっこのレコードがかかり、運動会の声援があったら喜ばしい気持ちでそれを聞きたいと思います。