夕べの夢は

 夢を見ているときには、この夢は面白いからきっと覚えておこう、と思っているのに、起きてみると、夢を見たことは覚えているのに、何の夢だったかを思い出せないことがよくあります。また、夢を見ているときに、「あ、これは以前に見た夢の続きだ、」と思うことがあります。ところが目が覚めてみると、以前の夢も昨夜見た夢も全く思い出せないのです。 夢を見ている時の次元と起きている時の次元は違っているのかもしれません。目が覚めている時間の帯と夢を見ている時間の帯はどこかで交わることがあるのかどうか、これは古い詩にもあったと思いますが、夢を見ているときの現実感の強さは、目覚めているときに思い出すと、夢の時間が現実で、ぼんやり流れる昼日中が非現実のような気になってしまう時があります。 

 最近見る夢は、何か目的があって歩いていたり、捜し物をしていたり、あれこれ何かをしようとしているのですが、必ず途中で脇道にそれてしまうとか、いつの間にか話の筋道が変わってしまうなど、夢の話しが完結することはないのです。美味しそうなご馳走やお菓子が目の前にあるのに、実際にそのご馳走やお菓子をいただくところまでいたらないのです。美味しそうな匂いも記憶に残っているのに、ゴールに辿りつけない、というのが夢の時間の中の決まりごとのようです。 

 初めて強烈に印象に残った夢は、小学校低学年の頃でしょうか、家の裏木戸のすぐ近くにあるお稲荷さんの前の下草が勢いよく燃えているのに仰天して飛び起きて大騒ぎしたことでしょうか。寝入りばなだったようで、家族が大急ぎで集まって来ました。家は日常のままで、火事の騒ぎもなく、「大丈夫、大丈夫」と宥められました。寝ぼけていたようです。おそらく幼児の頃今市地震があり、父に背負われて逃げるとき、玄関先が燃えていた炎の記憶があったのでしょう。 

 

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夢の中ではもっと輝くような強烈な色彩ですが、色鉛筆ではその迫力は出ないようです。アクリル絵具なら良いかもしれません。

 私の見る夢は、たいていストーリーらしきものがあって色彩はないのですが、色彩がある夢で今でも強烈に印象に残る絵があります。場所はどこかしらない南の国、大きな湖か海が目の前一面に広がり、対岸間近に迫る大きな山から真っ赤な火柱が立ち登り、無数の火花が飛び散っています。山は赤茶色、空は明るい群青色、水は緑がかった紺、水の中に1本だけ茎を伸ばした花が咲いています。茎と葉は真緑、花はサモンピンク。絵全体が光を背負って鮮やかに輝いています。これは10歳前後の頃から夢に現れ、中高の生徒だったころは始終見たものでした。  

 もう一つの夢は、やはり遙か海原が広がる風景です。水平線の先は真っ青な高く澄んだ空です。そこにたった一羽の白い蝶が浮かんでいます。海原の広大さと蒼穹の広がりの中程に、輝くような白さで浮かんでいるのです。飛んでいるのではなく、大気の中でふわりふわりと浮かんでいるのです。空気の流れに逆らうでもなく、流されるでもなく、不思議なもののように浮かんでいるのです。

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広い世界の中で一人悠々飛んでいる白い蝶の輝きも絵で描くのは難しいです。

 近頃の夢にはあまり面白いものは意識に残りません。おそらく、鮮やかな二枚の絵のような印象に残る夢はこれからも見ないような気がします。あれは一体何だったのだろうかと、ぼんやりと、真昼間の時の流れに漂いながら胸の中で二枚の絵を何度も何度も描き直しています。