上原淳道先生のこと

 退職して以来折々に思い出す顔があります。最近は中国の話題が多いせいか、かつて同僚であった上原淳道先生のことを思い出します。先生は中国古代史の研究者ですが、一度も中国にいらしたことはないと伺ったことがあります。

 先生は東京大学を停年退官された1982年に関東学院にご着任されました。たまたま同じ年に、社会福祉の先生と私も着任したのです。当時の勤務校の文学部は長閑で、昼食時間ともなると教員談話室でおしゃべりをしながら四方山話をしたものでした。そのおしゃべりから、私の誕生日の11日前が上原先生、11日後が社会福祉の先生の誕生日であることがわかり、大いに話が盛り上がりました。そして、上原先生の音頭で8月に三人のお誕生会をしたのでした。

 先生のセカンドハウスであれこれ楽しく話をし、近くのフレンチレストランで食事をしました。その時にいただいた本が『きけ わだつみのこえ』で、もう一冊、書名は忘れましたが、初心者向きの麻雀手ほどきの本を貸してくださいました。先生のゼミの学生は4人いるのに一人も麻雀をする者がいないと残念そうでした。せっかくお借りしたので、麻雀の手ほどきの本を開いてみましたが、どうも私には手に余りそうです。「お仲間に加えていただけそうもなく残念です」と申してお返ししたのでした。

 先生について最初に気がついたことは、几帳面で正確、端折らず丁寧ということでした。歩くときも横断歩道を斜めに突っ切って渡ることなく、ちゃんと四角に歩かれる方で、大学での先生を知れば、当然察しはつきますが、先生の研究室は、何もかもがすべてきちんと整理整頓されておりました。これは私の羨望を誘いました。

 先生のご著書で知っているのは三冊です。『政治の変動期における学者の生き方 上原淳道著作選1』と『「夜郎自大」について 上原淳道著作選2』の二冊は、先生が関東学院に着任されたときにご挨拶代わりにと下さったものです。もう一冊は『読書雑記』です。先生は1963年から逝去されるまで毎月、手書きの通信「読書雑記」を刊行し続けました。着任以来、毎月、談話室にある手箱に配ってくださっておりました。先生が亡くなられた後、勝子夫人が全441号を複写収録し、私家版『読書雑記』として発行され、お送りくださったのでした。

 「読書雑記」は几帳面な美しい楷書で手書きされており、先生の心に留まった書がどのようなものか、どのように読まれたかということを中心に記されておりました。同僚が刊行した書も取り上げることもありました。最初に私が単行本を出したときには、「読書雑記」で取り上げてくださっただけではなく、丁寧に読んでくださり、(恥を晒して申せば、)赤で誤植などの訂正もしてくださいました。

 私のみならず、当時の文学部教員が絶大な信頼と尊敬を先生に寄せていたのは、一つには、古武士のような風格をそなえ、心正しく権威に屈せず、優しい方だったからでしょうか。教授会で紛糾したときも、穏やかに筋の通った提案をなさると、一同、納得できたものでした。心溢れて論の足りない時にはさりげなく助け船を出してくださったことも多々ありました。情を汲みつつも筋を通す姿勢が、後に続く者には頼もしく思えました。一部の方には煙たかったようですが、志はあっても立場の弱い人たちには暖かく優しい方でした。先生の一言、二言で助けられた方は多かったと思います。

 当時、文学部には学科横断の教員サークル「喜劇悲劇の会」がありました。悲劇・喜劇ならば、どの専攻も関わることができるだろうとつけられた会名です。月に一度、交代で専攻テーマについて発表し、意見交換をした後、連れだって食事に行くというのがお定まりでした。上原先生は古代中国史について何度かお話ししてくださいました。「読書雑記」の書体もそうですが、黒板にも端正な字を書かれました。丁寧に書き始めても終わる頃には字が崩れてしまう私には、先生の全く乱れない字が、これまた、羨望の的でした。先生の書体は先生のお人柄そのままでした。中には先生の字を手本に練習している人もいると聞いたこともあります。

 先生は65歳の停年でご退職なさいました。その後は、購買部が納品書などを入れるために使用していた茶封筒に入った「読書雑記」が送られてきました。読むたびに先生を思い出しました。70歳になられた時でしょうか。先生の周囲の方が準備された「祝う会」で先生にお目にかかれました。お元気そうで何よりでした。その時に心に残ったのは来賓の澤地久江さんが、「私は大体、学者は大嫌いなのですが、上原先生は大好きです」という言葉でした。そばで先生は苦笑されておいででした。

 私個人として思い出すのは、専任になってまもなく、まだ学生生活の尻尾をつけたままで、世慣れていない頃のことです。帰り道が同じ方向ですので、時々渋谷までの電車の中でお話しさせていただいたものでした。あるとき、「渋谷で食事をしようと思っても、どこに行っていいかわからず困っております」というようなことを言ったことがありました。先生は「渋谷のように、こんなにいろいろあるところで困るなんて」と笑いながら同情をしてくださり、静かな美味しいレストランに連れて行ってくださいました。厳しい事もおっしゃいますが、すべて筋の通った正しいことでした。笑うと目がたいそう優しくなりました。暖かい方だと思いました。

 先生を思い出しては、世の中がどうあっても、先生の筋の通った姿を遠い先に思いつつ、日々を過ごしていきたいと思ったことでした。