言葉

ブログの日付をみましたら、この前のブログは3月半ばです。この日々、物思わぬ訳ではなかったのですが、思いは溢れるのに、言葉になりませんでした。日々報道される人災、天災の傷跡も生々しいのに、次々に襲う厄災には言葉もありません。言葉の欠片が胸の内で踊り狂っているのですが、言葉になりません。目と耳が開いたまま、思いと言葉の欠片の海に溺れて漂う泡のような心持ちでした。

今朝ニュースで、ロシア語を話しているウクライナの人がウクライナ語を話すようになっていると伝えていました。そのなかの一人が、ウクライナ人でこれまでロシア語を話していたそうですが、ロシア語が嫌になったのではなく、それ以上にウクライナ語を話したいと思った、と言っていました。

このニュースを聞いて、最初に心に浮かんだのは、1066年のノルマンディ征服のあとのイングランドの言語状況でした。この期を境にイングランドはノルマン人に支配されます。言語について言えば、教会の言語はもとよりラテン語でしたが、宮廷はフランス(ノルマンフレンチ)語となり、英語は宮廷から駆逐され、庶民(農民)の話し言葉に残るばかりとなり、文学、学術の言語ではなくなっていきました。英語が復活するのは13世紀に始まる英仏間の百年戦争が切掛でした。根っこはノルマン人だった人々の間にイングランド意識が強くなっていったのです。「イングランドの我々が何故フランス語を話すのか、」といったところでしょうか。そこで、議会や大学や諸々の場面で英語が採用されることになったと英語史は伝えています。その後、チョーサーやシェークスピアなどの天才が英語を洗練させ、文学を成長させる礎になったのでした。

戦争で言葉が強制させるということは散見されます。戦争が言語とこれほど結びついているのかということを初めて感じたのは、キュリー夫人の伝記を読んだときでした。彼女が強制されて支配者の言語を話さなければならなかった苦痛と屈辱の経験を知ったとき、子供心にもその情緒は心に痛く感じました。このたびの、ロシア語が嫌なのではないけれどウクライナ語をもっともっと話したい、という気持ちに大きな感銘を受けました。

それにしても、やはり、戦争はいけません。なんとか落としどころが見つかりますように、なんとか、早く終わりますようにと願うばかりです。