「永遠」に思う

このブログでキーツに触れたことから、かつてサークルで読んだ英詩のいくつかを思い出しました。当時はロマン派の英詩が好きでしたが、その理由の一つは、彼らが何らかのありようで、魂の永遠を希求していたからだと思います。 

キーツの「ギリシアの古壺 (“Ode on a Grecian Urn”)」の最後は、“Beauty is truth, truth beauty, that is all / Ye know on earth, and all ye need to know.” (美は真実、真実は美、/それこそがこの世で知るべき、知らねばならないすべてのこと、)です。ギリシアの古壺ですから、これはキーツが生きた19世紀からみても遙か彼方の大昔のものでしょう。その古壺に寄せた思いの中に、美と真実が永遠であるとの確信があったのだと思います。 

永遠は、キーツよりほんの少し早い時代に生きたウィリアム・ブレイク (William Blake: 1757-1827) も歌っています。

       To see a world in a grain of sand.   一粒の砂に世界を見る。

       And a heaven in a wild flower,    一輪の野の花に天国を見る、

       Hold infinity in the palm of your hand. 掌に無限をとらえる。

       And eternity in an hour.       そして一刻に永遠を見る。 

ブレイクはイギリスの詩人、画家、銅版画職人で、神秘的魂をもった天才として知られており、詩とともに彼の銅版画、挿絵は高い評価を得ています。ダンテの『神曲』の挿絵は今も多くのファンを魅了し続けています。私がなによりも惹かれるのは、一粒の砂に世界を見るという宇宙観です。壮大な世界を一粒の砂に見るという洞察と直感です。この世の小さな、儚い物の中に広大な世界、永遠世界を洞察し、それをこんなに簡潔に表現ているところです。 

永遠を見るというのは、確かな真実を求める魂の切望そのものです。17世紀の形而上詩人ヘンリー・ヴォーンの“The World”というタイトルの詩の冒頭に出会った瞬間の感動は今も忘れられません。“I saw eternity the other night / Like a great Ring of pure and endless light,….”(私は先夜永遠を見た、限りなく続く大きく清純な光の輪のような・・・)が冒頭の2行です。人によっては冒頭の1行は、“I saw my friend the other night.”(私は先夜友人に会った)と同様の日常文であってどうということもない、とコメントします。ですが、ワーズワースは、日常の言葉を歌い上げることに詩の本質はあり、日常的陳腐さを詩に変えるのは詩人の想像力だと言っています。ヴォーンのこの詩行はその良い例ではないかと思います。 

こうした永遠の表現から、長いこと、永遠とは金剛石のように堅く、傷つくことなく、壊れることがない何かのように思っていました。ところが、永遠を全く別の視点からも見えることを知りました。やはり学部時代の購読の授業のことでした。チェスタートン(G. K. Chesterton、1874-1936)のエッセイを読んだ時に出会ったのです。そのなかに、永遠について触れた一節がありました。硝子は脆く壊れやすいもので、手から落ちれば簡単に壊れてなくなる代表的な物の一つです。ところが、もしその硝子でさえ、壊れずにそのままあれば、壊れるまでは存在できる、場合によっては永遠に存在することができる、という趣旨の内容でした。 

永遠が堅固で、不動で、未来永劫不変な何かと思い込んでいた私は、チェスタートンのいう様な永遠のありようは想像もしておりませんでした。キーツの古壺も、ブレイクの砂の一粒も、現実世界にあるものを見て、永遠を語っていたのです。ですが、私は「星を求める蛾」のように、永遠を求め、永遠の真実に焦がれて身を焼くシェリーの魂、ヘンリー・ヴォーンが見た永遠の光の輪にイメージされる永遠は、常人の手の届かない遙か彼方にあり、それを恋い焦がれるように憧れていたのです。それは錯覚とは言いません。そうした永遠のありようも、それに希求する心もあるのですから。とはいえ、あまりにもそのイメージに拘っていたのでした。 

思えば、一瞬にして永遠である不動の時は神のもので、過去から未来へと流れていく有限の時間の中で生きている人間には、現実を踏まえた永遠の視点があってもいい、という側面を思わなかったのです。脆く壊れやすい硝子に永遠を見るという言い方は、逆接を得意とするチェスタートンならではの表現ですが、真実の核を見事に言い当てていると思います。 

日々の生活の中で、シェリーやヘンリー・ヴォーンの描く永遠を彼方に求め、同時に、硝子の中に現実を踏まえた永遠を見ることができるならば、なんと日々は、より豊かになるだろうかと、改めて思ったことでした。