秋深し、人恋し

秋もだいぶ深まりました。この三月以来、家に籠ることが多く、親しくお会いしていた方々にもお目にかかれず、日々は淡々と流れていきます。心はどこか止まってしまっているのですが、流れる自然は物言うことなくも確かに時を刻み、季の移りを教えてくれます。見上げる空の色、風のそよぎ、草や葉の風情、花の移り変わりで季節の移り変わりを知り、心だけが止まっていてはいけないと促されます。

明け方、白々と明けてくる空を見ながら、めっきり冷えてきた空気を吸いこみます。朝目が覚めると、まずは家中(と言ってもたいした数ではありませんが、)の窓を皆開けます。夏は4時前ですが、今は5時半頃です。なぜか、お日様の光が一筋でもさしますと自然と目が開いてしまいます。まだ暖房は使っていませんが、一晩締め切った部屋の中の空気はやはり暖まっているようです。窓を開けた瞬間に流れ込む空気は透き通って清々しいです。この時間が、かつては唯一の自分の時間でした。追われる予定というもののない今は、一日が自分の時間のようなものですが。

テーブルに向かって腰を下ろし、庭を見ると柿の木が見えます。木の葉の緑にだいぶオレンジ色が混じってきました。いよいよ、秋も終わりですね。子供のころ、まだ、家で焚火ができたころ、たくさんの柿の葉を焚火で燃やしました。寒い中での焚火は、手や顔は熱くなるのですが、爪先は冷たいのです。足の先を火の方に向けても暖かくなるには時間がかかります。漫画などでは焚火で焼いた薩摩芋をよく見ました。おいしそうで、何度か強請って試してみましたが、家ではやはりうまくはできませんでした。近所の焼芋屋さんの金時芋の石焼芋は本当においしかったです。

今は焚火はできませんが、柿の木を見ているのは好きです。時には柿の葉を眺めている間に日が暮れます。外に出ることがなければ人の姿も見えません。東側は車の行き来はそこそこあります。が、救急車や消防自動車が、一体何が起こったの、と思うほど大騒ぎで通る時以外は静かです。普段は、隣は何をする人ぞ、などとは思いもしないのですが、秋が深まり、人恋しくなると、「秋深し、隣は…」の句を思い出します。初めてこの句を知ったとき、意味は今一つつかめませんでした。人懐かしさ、人恋しさの幾ばくかは感じ取れたのですが。その人恋しさ、人懐かしさが、実際の心情としてどのようなものか、子供の私には思いが及ばなかったのです。

それから何年も過ぎ、親元を離れて不器用に日々を過ごしていたころ、一人暮らしの友人がこんなことを言っておりました。「砂を噛むように空しくて、膝を抱えて座り込むくらい人恋しいときがあるけれど、誰でもいいというわけにはいかないのよね」と。人懐っこい私は、これまたその意味を深くまでは理解できませんでした。

その後、物思いを知るようになってから、折に触れて、私の中で「人恋し」と「誰でもいいとは」とが代わる代わる思い浮かびます。「人恋し」の心情は年齢とともに微妙に変化していきました。そして「誰でもいいと…」も微妙に変わっていきました。今も定めがたく二つの言葉は心の中で揺らぎます。「人恋し」も「誰でもいい…」も、多くの相を持つ言葉なのでしょう。それは人の心の襞が思った以上に複雑だからなのでしょう。 

昨夕はそんなことを思いながら十三夜のお月さまを眺めていました。少し靄のかかったお月さまは、綺麗な薄黄色の顔でこの世を眺めていました、真ん丸ではなく少し欠けているところも、何とも心に沁みていいですね。雲に隠れてしまうまで眺めているうちに、心の中の小波は静まっていき、意識はこの世に戻ってきたのでした。