紫陽花

6月に入って、家の紫陽花も色づいてきました。あちこちのお宅の庭の紫陽花はもっと早くからが咲き始めています。紫陽花は子供のころからずっと好きでした。花の色が変わるので花言葉は「移り気」と聞かされました。こんなにきれいな花なのに可哀想に、と思いました。昔から知っている紫陽花は、青、紫、赤紫、白で、手鞠のような形のものと萼紫陽花しか知りませんでした。最近はいろいろな品種も現れ、色も花びらの形も多様です。花と言われている部分は、本当は装飾花というのだそうですが。名古屋の徳川美術館で「墨田の花火」という紫陽花を初めて見て、なるほど、花火が弾けて広がっている姿だと思いました。  

勤務していた大学のシンボルはオリーブでシンボルカラーはオリーブ色でした。文学部キャンパスにオリーブの木はありませんでした。あるとき職員の方々と相談して、有志のカンパでオリーブの苗木を植えました。縁ある町からの寄贈もあり、数本のオリーブの木が繁り、毎年実も収穫できました。その時の寄付がまだ余っているので、何か植えようかということになり、紫陽花はどうかと提案したところ、それは良い、と賛成していただきました。いうわけで、紫陽花を数本植えました。墨田の花火も一本ありました。オリーブも紫陽花も、毎年、少しずつ大きく育っていきました。当時の方々は(私もですが)、みな退職しました。でも、今頃は紫陽花が咲き、オリーブの花が咲き、秋には実をつけてくれるだろうと思っています。 

紫陽花にはいくつか心に残る思い出があります。一つは学生時代、書道の先生のお宅へ通う小道の途中、あるお屋敷の板塀際に咲いていた萼紫陽花です。こんなに見事な蕚紫陽花をみたのは初めてでした。白みがかった青い、一枚一枚が大きめの花びらが、花序の周りを、人の手で並べられたかのように、整然と取り巻いていました。後で知ったことですが、紫陽花は蕚紫陽花の方が元々で、手毬型の紫陽花は改良して生まれたのだそうです。ともかくも、一枚一枚の花びらも、手毬形の花も、紫陽花全体も、それは美しい見事な紫陽花でした。紫陽花の時期になると、この花を見るのが楽しみで、いそいそとお稽古に通ったものでした。 

もう一つは、かれこれ50年前、妹と西荻窪で暮らし始めたころのことです。すぐ近くに劇団若草があり、夜ともなれば、そこに通う子供さんたちの送り迎えの車が何メートルも並んでおりました。その劇団若草のお向かいに、一軒の古いお屋敷がありました。どなたも住んでいらっしゃらず、外からは比較的広いお庭が見えました。お庭に庭木はあったと思うのですが、花を咲かせる木には気づきませんでした。ただ一本、そのお庭の一番奥の角に、大きな、大きな紫陽花があったのです。真青な、手毬形の、大振りの花をたくさんつける紫陽花で、外から見ているのに花びらの一枚、一枚がよく見えるほどでした。花の色の青さといい、花びらの形といい、手毬形の風情といい、それは、それは、素晴らしく美しい、見事な紫陽花でした。綺麗だなぁ、見事だなぁと、通るたびに感動しました。 

たった一度だけ、不思議なことがありました。ある月の光が明るい宵のことでした。辺りは真暗ですのに、紫陽花の周辺だけが明るく、不思議なこともあるものよ、と思いました。月の光が紫陽花にまっすぐに注いでいるためだと、しばらく見ているうちに気がつきました。月の光が灯のように何かを照らすというようなことがあることを、そのとき初めて知りました。闇と隣り合わせになっている場所の花の花びらは、端のところが月の光で光っています。一瞬、どこか知らないところに迷い込んでしまったような心持になりました。不思議な、美しい、魅惑的な光景でした。紫陽花の繁みから紫陽花の子でも現れてくるような気さえしてきました。

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かつて私がたった一度だけ見た、幻の紫陽花の陰で、紫陽花の子が笑っているかもしれないなどと、ときどき思います。

それはただ一度のことでした。気がつけば、そのお屋敷はいつのまにか取り壊され、外から垣間見ることはできなくなっていました。以来、あれほど見事な紫陽花を見たことはありません。 

日盛りの道を歩いていると、ときどき、この道を曲がると別の世界に行ってしまう、と予感することがあります。あの紫陽花の家も、我家に帰る最後の角を曲がってすぐの所にありました。日盛りの道は私を別の世界に誘うことはなく、道を曲がれば、ちゃんと見慣れた家屋敷が並び、私の帰るべき家が見えてきます。ただ、あの日に見た、あの幻の紫陽花だけは、道を曲がって入り込んだ別の世界の花ではなかったろうかと、ときたま思うことがあります。