ムスカリの宴、花の宴

昨夕、ムスカリの鉢をいただきに出かけました。時間があったので途中から歩いて行きました。いつもなら人であふれている後楽園付近も閑散としており、悠々散歩ができました。この二週間、コロナウィルスの余波でカルチャーセンターで担当しているクラスも休みとなりました。運動不足気味でしたので、やや冷たい風を受けながらもリフレッシュできました。爽やかな気分で待ち合わせ場所にいきますと、ムスカリの鉢を携えた知人のにこにこ笑顔が見えました。

前に行ったことのある居酒屋で、もう一人の友人を加え、三人でおいしいお酒と肴を賞味しながら、四方山話ができました。来し方行く末、研究する姿勢、支援学級、酒席では・・・などなど。そのなかで、歴史研究と文学研究の姿勢が話題になりました。かつて、何方の言葉か思い出せないのですが、歴史研究はブルドーザーを動かすようなものと言い表しておられました。文学は、松尾葦江先生の言葉をお借りすれば、「水の中の金箔を掬いあげるような」こと。歴史はともかく、文学研究の比喩はなるほどなぁ、と思ったことがありました。

古文で「枕草子」を習ったとき、この作品を書いたころの清少納言は、お仕えしていた皇后定子への帝の寵愛は他に移っていたと、清少納言の描く宮廷の雅は現実の姿ではなかったからこそ故に、心して味わいながら読みなさい、と聞きました。「枕草子」はそれ以来、一層愛おしく思われ、何度読んでも心に残る作品となり、ふとした折りに、「枕草子」の一節や清少納言の心情を感じます。

平家物語」も、内容は小学校のころ子供向きに書かれたもので知っておりましたが、本当に出会ったのは古文の授業でした。一人で読みますと筋に追われて先に先にと進みますが、授業ですと一語一語確かめながらゆっくり読みますので、ああそうか、と胃の腑に落ちることが多いのです。帰宅してから原文をもう一度声を出して読み、また声を出して読み、気に入ったところはノートに写してみたりもします。「平家物語」は調子も良く、「太平記」と比べると血腥い印象がなく、大層気に入っていたのですが、あるとき、言葉で表現されたことの背後に、なんと多くの悲惨、多くの悲劇、多くの血腥さがあることかということに気がつき、圧倒されてしまいました。門外漢ながら「平家物語」の研究書を少しずつ読むにつれ、一つの言葉に込められた深い思いや機微に触れ、少しずつ、そして深く、その魅力に囚われていきました。

そのような話をとりとめなく交わしながら、昨今の、原文を十分に読まずコーパスを駆使して分析して事足れりとする論文、文学といいながら「ことば」の意味するところを一顧だにしない論文が、年々読めなくなっている自身の狭量さを思いました。同時に、やはり言葉にこだわる研究の楽しさを再認識したのでした。

あれこれと、主に東北地方のお酒とそれに良く合う肴を賞味しつつ話をしておりますと、心はいつか花見酒、春の宵の酒宴を傍らでムスカリが無言で付き合ってくれました。値千金の花の宴でした。

f:id:kittozutto:20200318094107p:plain

その日いただいたムスカリです。なんとも可愛い花ではありませんか。我家でも大事にしますから、元気に咲いてくださいね。