普通ということ

バイデン大統領の演説を聞いて、以前から感じていたことですが、普通ということを理解できる方だと思いました。前大統領の言動には驚かされ続けておりましたから、安心して聞いていられました。特に今の時期、普通ということの真価を改めて認識したことでした。 

普通とか平凡ということを初めて意識したのは中学生の頃でした。現在は『たのしい川辺』という邦訳で出版されていますが、当時『ヒキガエルの冒険』というタイトルで知った作品を読んだ時のことでした。ヒキガエルの他に、アナグマ、川ネズミ、モグラが登場します。彼らは大きな川のほとりで暮らしています。物語はこの4人、いや4匹の登場人物を中心に営まれる日常生活を描いたお話しです。作者はケネス・グレアム、息子さんのために書いたそうです。 

登場人物が織りなす日々は長閑で楽しく、最初に読んだ時には「ああ、面白かった」につきました。こんな風に暮らせたら楽しいだろうな、こんな風に暮らしたいな、と思いました。波瀾万丈の一生ではなく、そよ風に吹かれながら、ゆらゆらと日を送るのは悪くないな、と思いました。そう言えば原題は The Wind in the Willows(柳に吹く風)です。テームズ川の川辺が舞台だそうです。いずことも知らないテームズ川とそのほとりはきっと良いところに違いないと思いました。 

大学生になってから、『たのしい川辺』というタイトル、シェパード挿絵、石井桃子さん訳の、岩波版の美しい装丁の同じ本を知りました。寮生活をしていた頃のことです。改めて読み直しました。一つ一つの言葉、場面の描写が心に残る、珠玉の作品だと思い、何度も読み返しました。この時にはっきりと気がつきました。4匹の動物のうち、ヒキガエルは見栄っ張りでいばりんぼですがどこか憎めません。アナグマはどっしり落ちついた重鎮です。川ネズミもモグラもそれぞれ性格はありますが、アナグマヒキガエルに比べると平凡です。普通です。私が平凡や普通ということを改めて意識したのはこの時でした。 

このお話を丁寧に読んでいくと、ヒキガエルアナグマの個性を支えているのは川ネズミやモグラの平凡さであることに気がつくのです。友達にこの本の話をして、「普通がいいね、平凡がいいね、」と言いましたら、「川ネズミやモグラのような、一見普通で平凡な人って、いるようで意外といないのよね」と言いました。確かに。しばらく『たのしい川辺』の話で盛り上がりました。 

時移り、大学院でPearl『真珠』という詩に出逢いました。14世紀の作品で作者は不詳です。Pearlは、主人公の一人娘の名前です。当時は、ダイヤモンドよりも東洋の真珠の方が遙かに価値があったのだそうです。ですから、真珠は宝石中の宝石ということです。娘の名前と主人公が宝石商であったことがタイトルと結び付いています。さて、主人公は幼い娘を大層可愛がっていたのですが、二歳になるかならないうちに亡くなりました。宝石商はその喪失感に耐えきれず、絶望のどん底に突き落とされました。宝石商はこの絶望から立ち直ることができません。嘆いている間に眠り込み、夢の中で娘に再会し、言葉を交わします。この対話と紆余曲折の思考の末に、すべては神の御手に委ねようということに心が落ち着き、長く苦しい魂の暗夜を越えることができたのでした。詩は、愛娘の死から絶望を乗り越えるまでの、宝石商の魂の軌跡を辿ったものです。言葉は難しく、至る所に丸い真珠のイメージが散りばめられた、技巧を凝らした作品ですが、美しい、まさに真珠のような作品です。 

この時代、魂の暗夜を越えて覚醒を描く作品は、ダンテの『神曲』をはじめ少なからず見受けられます。そうした作品とPearlが異なるのは、他の作品では際だった個性をもつ登場人物が主人公ですが、Pearlの主人公はそうではないことです。どこにでもいる、目立たない、平凡な、全く普通の人間が、主人公なのです。この世の現実世界では、何でもない普通の人が、何らかの切掛けで魂の闇に陥る、ということはよくあることです。14世紀の不詳の詩人が、平凡で普通の人の魂の暗夜に注目していたことに感動し、かつて「Pearlにおける救済: 宝石商の場合―凡庸さを愛でて」という論文を書きました。その後、「普通」に拘りつつも新しい角度から、かつての教え子の渡辺直子さんがPearl研究を続けており、うれしい限りです。 

今回、バイデン大統領の演説を聞いてはじめに感じたのが、この普通さでした。インパクトが弱いなどという声も聞こえてきますが、今、合衆国だけでなく日本でも望まれているのは、普通の良識を理解できるということではないかと思います。あれだけ分断された国をふたたび一つにまとめるのは、そして山積する問題を何とかしていくのは、並大抵でないことは明らかですが、新しい大統領の船出の幸先が、是非、より良いものでありますようにと願ったことでした。