あの帽子は・・・

正確に覚えていないのですが、「母さんあの帽子はどこに・・・」というセリフが時々思い出されます。

2001年チュービンゲンで学会があって出かけたときのことです。International Courtly Literature Society (ICLS)、日本語で言えば、国際宮廷文学学会というなんとも優雅な名称です。町の人口の七割が大学関係者というチュービンゲンは落ち着いた大学町でした。セッションはヘルダーリン棟で行われると聞いていたのですが、どこにもその表示がありません。やっと辿り着いて知ったのは、ヘルダーリンは政治的な理由で、その名称を棟のどこにも記せなかったが、大学関係者の誰もが、ここがヘルダーリン棟であることは知っているということでした。

このとき身にしみて感じたことの一つは、外国の古典を研究する日本人の目前に聳える語学という壁の厚さ、高さでした。開会式の挨拶が、「あれ!これはラテン語?」と吃驚しているのは私くらいで(今思えば他にもいたのかもしれませんが)、まわりはラテン語の冗談(らしい)に、大声で笑っているのです。中世を研究対象にするには、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、とは耳に胼胝でしたが、片言のフランス語、ドイツ語さえ満足にはできませんが、辞書を使えば本は読める、簡単な文章が書ける程度・・・。ギリシア語・ラテン語にいたっては、一語一語みんな辞書を引き、文法書を眺めて文意をとるのが精一杯。ヨーロッパ人は古典語を少年期に学び始め、親族関係のヨーロッパ言語を学生時代に習得してしまっているのです。

言語体系の異なる日本人は英語で苦労し、他の言語も散々苦労します。(勿論例外はあり、モンスターと呼ばれる語学の天才はいるものです。)とまれ、こうしてやっと研究のスタートラインにつくのとは彼と我との間に大きな相違があると、新鮮な驚きを認識をしたのでした。英語が世界言語であるというのとは別の意味で、死語であるはずの古典ギリシア語・ラテン語は研究世界では今も世界言語なのだとしみじみ思いました。論文などでは古典語の引用には訳がついていませんのに、古英語引用の時には時折現代英語訳がついているのも興味深いことです。

さて、大学のそばにはネッカー川が流れています。レセプションの時に、ヘルダーリンの「ネッカー川」という詩が、出席者の国の言語で朗読されました。日本語もその一つでした。日本の学会の粛々(本来は良い言葉なのでしょうが、ある時期から耳にするたびに不愉快になりました・・・)と研究発表があり、偉い先生の若い研究者への度を超えた厳しいコメントがあり、私のようなアカデミックでない者には敷居が高いのですが、こんなに歓迎ムードあふれる楽しい学会は良いなあ、と思いました。ただし、発表については和気藹々ながらしっかりした質疑応答があるのは言うまでもないことです。

セッションの合間にはコンサートあり、近くの修道院などでの夕食会あり、楽しいイベントがいっぱいでした。一日がかりの遠足ではハイデルベルク大学の図書館に行き、美しい写本をたくさん見ました。その時のことです。行き帰りのどこかで気に入っていた若草色の帽子をなくしてしまったのです。どこかに置き忘れたのか、風で飛んだのか。私の想像では、若草色の帽子が風に乗ってネッカー川に向かってゆらゆらと飛んでいく光景です。そこで、「母さん、あの帽子は・・・」ということになるのです。

実は、今日のブログに、ネッカー川や、ヘルダーリン棟や、地元の新聞に掲載された日本語に訳された「ネッカー川」の詩を写した写真を入れようとしたのですが、コンピューターにあるはずの写真が消えてなくなってしまっていたのです。そこで心に浮かんだのが「母さんあの帽子・・・」のセリフです。言い換えれば、母さん、あの写真たちはどこへいっていまったんでしょう!!ということになるでしょうか。