8月15日

明日は8月15日、終戦記念日です。日本の第二次世界大戦は1945年のこの日に終わりを迎えました。

1945年8月15日、玉音放送で前日に決まったポツダム宣言の受諾と日本の無条件降伏が公表され、9月2日、降伏文書に日本政府が調印し、1952年4月、平和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効し、ソ連共産主義諸国を除く連合国各国と日本の戦争状態は終結に至ったと聞きました。これは小学校の社会の授業で習ったことです。

私は戦後生まれですので戦争の体験はありません。また、このテーマについて語るには私の知識も言葉も稚拙だと感じています。私の周囲の大人たちは「戦争が終わってほっとした」ということ以外、ほとんど戦争体験を語りません。おそらく、私同様、語れる言葉が出てこないのでしょう。でも、今日は、拙い言葉で思いを言葉にしてみようと思います。

小学生になった頃から、小学生新聞も含め、新聞、雑誌、書籍、テレビやラジオのニュースなどを通して、原爆の残酷さと共に、戦争の非道さ、酷さを知り、戦争に怯えました。朝鮮動乱(今は朝鮮戦争というのだそうですね。)のニュースを聞いたときには、今にも戦争が始まるのではないかという恐怖と不安に襲われました。

その後も、絶えることなく、多くの人たちが戦争反対、世界平和を叫ぶにもかかわらず、列強国は更なる核兵器を開発し、核実験によって実験地付近の住民や、たまたま居合わせた例えば第五福竜丸の乗組員などに、被害をもたらしました。核兵器に加え、化学兵器なども已むことなく(おそらく今も)開発されています。枯葉剤のために結合双生児となったベトナムの双子のことは、記憶の彼方というほど過去の話ではありません。しかも、世界の各地で絶え間なく戦いは起こり、停戦条約が結ばれては戦いが再開され、そのたびに非戦闘員の人々が命を失い、逃げ惑い、戦火を避けて難民となり、これが何度も、何度も繰り返されています。絶望の表情を浮かべた老人、乳飲み子を抱えて途方に暮れる母親、年端もいかない子どもがさらに幼い弟妹を庇う姿を見て、戦争を指揮する人たちは心が痛まないのだろうかと暗澹たる思いです。そのたびになんとかならないのだろうかと思いつつも、僅かな寄付をする以上の具体的なことは何もしておらず、良心の呵責を覚えながら、ただ心を痛めるばかりです。

第二次世界大戦が終わったとき、皆が戦争はこりごり、絶対に戦争はしない、あってはならないと、心からそう思い、平和な世界を模索し始めた筈なのです。それなのに、なぜこうも戦いが已まないのか。どの国も、平和を望む人は等しく戦争反対を訴えています。史上初めて原爆の被害を受けた日本は、原爆の威力、壮絶な悲惨は身近に良く知っているはずです。もっと声を大にして平和の実現を訴えてもいいのではないかと思っています。

原爆を受けたからといって被害者面をして、自分が正しいとばかりに主張するのはいい気なものだ、日本人も酷いことを一杯した、と言われたことがあります。戦争や核兵器を反対するときに、言いたいことはそういうことではないのです。あのとき、広島・長崎には日本人以外にも、朝鮮半島の人々も、戦争相手国の人々もいたのです。その場にいた人々は、皆一様に、原爆の被害を受けたのです。正義とか戦争責任といった理屈以前に、戦争がもたらす悲惨を前に、もう二度と、繰り返してはいけない、という思いなのです。言う資格があるかないかではなく、戦争になれば、必ず、悲惨で凄惨なことになる、ということなのです。戦争に反対し、平和を求めるのは、正義を猛々しく主張する意図からではないのです。

50年近く前、「非武装中立というのは理想論の絵空事だ、スイスは国防予算が多く武装中立で、だから、古米、古々米どころではなく、何年も前の小麦粉を食している。食に奢った軟弱な日本人にそれができるか、」という言葉を聞いたことがあります。なるほどとは思いました。核抑止力などというのも、この辺と結び付くのかもしれません。近年、覇権思想があちこちで見え隠れする状況では、そうした見方も出てくるかもしれません。

それでもです。広島の原爆資料館で見た展示品は、何が何でも戦争はあってはならないことを強く訴えます。私の後ろにいた人が「原爆ってこんなに小さいの?」と呟きました。そうです、こんなに小さい核爆弾一つが、1945年8月6日、一瞬のうちに、あの大きな町を破壊したのです。当時の広島は人口34万人位だったそうですが、爆心地から1.2kmの範囲ではその日のうちに50%の人が死亡し、12月末までに更に14万人が死亡したといわれます。全体では20万人もの人が犠牲になったと聞いています。8月9日には長崎に原爆が投下されました。当時、長崎の人口は24万人位だったそうですが、12月末、被害は死者7万4000人弱、負傷者約7万5000人、罹災人員13万人弱、罹災戸数は1万9000戸弱にのぼったそうです。

これだけ見ても、原爆はとんでもなく大きな悲惨な被害をもたらすことがわかります。さらに恐ろしいことに、その後も原爆を受けた時の火傷や怪我の後遺症による障害、体内被曝の出生児死亡率の上昇、白血病甲状腺癌の増加などがあり、戦後76年というのに、未だに原爆の後遺症に苦しむ人がいるのです。「黒い雨」裁判は一応の決着を見ましたが、この先の道も険しいものだろうと思います。原爆とは、なんと悲惨な悲劇をもたらす兵器なのだろうかと思います。また、戦争は物理的、身体的な被害をもたらすばかりでなく、精神的心理的被害をもたらします。そうした方たちの話を聞く度に、戦争の二重、三重の恐ろしさを思います。戦争だから仕方がないでは、決して、決して、すまないと思います。戦争はあってはならないと思います。

人知を尽くし、国のレベルでは国際会議や外交などを通して、民間レベルでもできる努力をして、なんとか平和への道を模索することはできないものかと思います。改憲を叫ぶ声も大きくなっています。日本の憲法第九条は外国でも小学校の教科書で紹介されている、と聞いたことがあります。この第九条を改悪することなく、世界に輸出(!?)することはできないものか、折々、本気で考えています。

「無条件降伏だから終戦ではなく敗戦だ」という人もいます。その通りかもしれませんが、終戦という言葉には、戦争は終わった、戦争はもうこりごり、これからは平和な世界を、という願いが見えてくるように思います。

この日、改めて、平和を願い、今も戦火の中で苦しむ人を忘れず、深い思いのうちに、過ごしたいと思います。