8月の終わり

コロナの中、家で過ごす日が続き、時は無意識のうちに流れていきます。庭木や草花の移り変わりに、ああもう春、入道雲に、ああもう夏、風やの具合、空の青の深さ、雲の色に秋の訪れを感じます。8月に入って一匹の虫が鳴き始めました。8月の終わり、今は夜も昼も、まるで時間がないもののように、悲鳴をあげて、必死に鳴いています。虫がこのように鳴く頃に私は生まれ、今日また一つ年を重ねて74歳になりました。 

50年ほど以前のことです。私ははじめてその女性に出会いました。その時、彼の女性は74歳でした。小柄な、和服が身に馴染んだ、明治生まれの女性でした。既に13年寝たきりになった夫を見送り、お会いした時は大正生まれの娘夫婦、昭和生まれの二人の孫と暮らし、家族のためにいそいそと立ち働き、食事やデザートの用意をし、家族が舌鼓を打つ様子を喜んでおりました。 

孫が結婚した相手は家事や料理が不得手で、現実把握の薄弱な女性で、当時は非常勤講師をしながら大学院博士課程に通っていました。P.D.ジェームズの『女に向かない職業』ならぬ、良妻賢母に向かない女性は何一つ揉めることなく新しい家に馴染み、その女性も変わることなく日々の営みを淡々と熟しました。やがて曾孫が誕生し、4世代家族は賑やかになりました。この曾孫は、(後で牛乳アレルギーのためということがわかったのですが、)3ヶ月にして粉ミルクを拒否し、母乳以外を受け付けなくなりました。 

このような場合、当時は、母親が仕事をやめるというのが普通であったと思います。が、その母親は仕事を辞めることは思いつかず、家族も「非常勤を辞めれば?」とは言いませんでした。その代わり、早めに離乳食を始める予定を立てました。なぜかヨーグルトは好んで受け入れましたので、その子はヨーグルトで育ったようなものでした。その後内科医の指示で、牛乳アレルギーの治療を始め、時間はかかりましたが、めでたくアレルギーを克服しました。 

しばらくの間、母親が仕事に出ますと、授乳と授乳の間が6時間空きます。3ヶ月の乳児にとっては大災難です。母親が大急ぎで帰宅しますと、赤子は曾祖母の腕の中で泣き疲れて寝ていたものでした。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃでした。あやしても、あやしても泣き止まない乳児を抱えて為す術ない曾祖母は切なかったことでしょう。でも、母親を責める言葉はありませんでした。 

この女性を長く知るにつれて、自立というのは何かということについて考えさせられました。専業主婦というのは言われるほど楽なものではないと思いました。家族が出払っている間、家を切り回し、買物をし、晩ご飯の支度をし、それを毎日繰り返し、一日、一日、一年、一年と積み重ねていく日々です。自分の時間はあってないようなもので、自分の時間は始終切れ切れになるのでした。家の外に仕事があれば、そこでの(苦労もありましょうが)楽しみもあるでしょう。開放感もあるでしょう。経済的に自立し、家族を養うことも大変ではありましょうが、自立しているような気にはなります。「養っている」という意識が強くなりますと、「誰のお蔭で・・・」が口から飛び出すこともあるのでしょうが。 

買物に出て季節の野菜や魚を見つけると喜び、近くに住んでいる姉とお茶を飲みながらお喋りをし、好きな縫物をしながら、一日を過ごす。折々には旅行に行き、楽しみがないわけではありませんが、「養っている」という類の錦の御旗を持たず、家を守り、寂しいとも、つまらないとも言わず、「行ってらっしゃい」と「お帰りなさい」を何十万遍も繰り返し、人としての可愛らしさを失わず、日々を過ごすのは、人としてよほどしっかりと自立していなければできないことだと思います。顔色を変えず、身の内に落ちてくる諸々を理屈抜きに穏やかに受け止め、苛立たず、肩肘張らずに過ごすというのは、実際、たいしたことだと思います。経済的な自立が即人間としての自立ではないということを、私はこの女性を通して実感しました。 

一度、恥ずかしそうに、また少し嬉しそうにポロっと話してくれたことがあります。若いとき夫は癇癪持ちで、出がけに癇癪を起こしたことがあったそうです。家で悄気ておりましたら電報が届き「今朝は悪かった」とあったそうです。明治生まれの夫婦もなかなか風情のある・・・と思ったことでした。 

どこまでも優しくチャーミングな善い方でしたが、95歳で、東京に大雪が降った日、静かに旅立ちました。その女性が家人の祖母で、良妻賢母になり損ねた孫の妻が私です。いつも心の中にあって、折々に思い出される義祖母のことを書こうとすると、なかなか言葉が出てきません。でも、今年を逃せば、私がはじめて出会った74歳という年は二度とは廻ってはきません。写真の笑顔の前で、拙い言葉ながら、今日は義祖母を思い、偲びたいと思っている次第です。