年の終わりに

コロナで明け暮れた一年となりました。暮れにきて、その猛威は一向に治まりそうにありません。やっと中断にいたったgo toキャンペーンは、少なくとも一月か二月はストップをかけるのが遅れたと思われます。旅行で感染は確認されていないと言い張っていましたが、素人の私は、go toキャンペーンが始まって以来、感染者数が増加し、しかも全国規模に広がっていることを見れば、やはり、浮かれて旅行に行っている場合ではない、と感じます。 

このコロナの猛威のために、様々の業者、会社、個人経営の商店、農業従事者、自由業と呼ばれている人たち、非正規雇用の人々、学生アルバイト、帰国できない留学生、外国人研修生などなどの、困窮の悲鳴が聞こえてきます。医療従事者は限界を超えるまでの過労が続き、これ以上の感染者の増加を想像すると、どんな思いでコロナと闘っておいでかと、暗澹たる思いになります。老人ホームや障害者用のホームで働く方たちの必死の状況も日々伝えられてきます。対策が現実に追いつかない中で更なる努力をしなければならない人たちの多さに圧倒されます。 

こうした中で、何とかこの苦境を耐え、乗り越えようとする試みが各地で見られます。マスクが不足した時に、様々な工夫でマスクを作ったように、何とかして生きる術を見つけて成功する場合もあります。助け合いの精神で、クラウドファンディングで寄付を募る活動もあちこちで行われています。数ヶ月の経験で、無観客、オンライン、ウェブなど、限定的ではありますが、最大限の注意と緊張をもって事に当たれば、ある程度の何かをすることもできるようになりました。 

一方、謂われのない誹謗中傷で追い打ちをかける人もいます。今、命の最前線で闘っている、私たちの生活を支えてくれる人たちに対して何ということを、と悲しいやら情けないやら。多くの人が、誰がどこで感染しているのかいないのか、全くわからない現在、自分自身が感染するのを恐れるばかりでなく、他人様に感染させてしまうことを恐れて外出を最大限控えています。その一方で、「自分は罹らない」、「罹ってもたいしたことがない」、「もう自粛はあきた」と、出かけては大騒ぎをしながら食事をし、時には酔い潰れる人もいます。人間の裏表、本質を見せられているようです。本来、こうしたことに大きな役割を果たすのは、上に立つ者のモラルの高さと実のある政策の実行だと思いますが、「自粛を」と説く国のトップが民の苦悩を尻目に会食しているようでは、後は推して知るべし、です。 

一年の終わりにあたって、本来なら希望に満ちた思いを言葉に表したいところですが、コロナばかりでなく、ここ数年間の自然環境の悪化、自然災害、人災、その他様々の問題が山積みで、そのほとんどが個人のレベルで何とかなる問題ではなく、まさに鱓の歯軋りです。と言った瞬間、一つのことを思い出しました。 

1986年にハレー彗星が地球に近づいてきた時のことです。一目見たいと思ってはいたのですが、東京では丁度いい場所と機会がなかなかなく、半分諦めかけていたのです。春になり、彗星が地球を離れかけた時、これが最後のチャンスという日に、駄目で元々、と出かけて行きました。海上から15度の角度に見えるということでしたから、可能な限り地上の明かりがないところ、しかも東京から行ける範囲、というのはなかなか難しかったのです。が、どうやら舞鶴半島の先端なら可能性があるというわけで、そこまで出かけ、暗い半島の先端に望遠鏡を設置しました。同じことを考えた人はいるもので、既にお仲間が集まっていました。午前2時かそこらだったでしょうか。見えたのです。ハレー彗星が。望遠鏡を通して。暗い海面の少し上、濃い灰色の空に、淡い煙玉のようなものが見えたのです。 

その時思ったのです。希望というのは、暗い夜空に赤々と燃えあがる炎のように耀くというのは誤解かもしれないと。いや、希望の姿はそれだけではないかもしれないと。元気いっぱい、順風満帆の時、希望は目の前に明るく耀いているのかもしれない。でも、絶望の淵にある時、周囲を圧倒するほど耀く希望は心情にそぐわないかもしれない。でも、そんなときにこそ希望が必要なのだと。そのような時、希望は、見えるか見えないかの、微かな、もやっと明るい何かのように、遙か彼方にほんのりと見えるだけなのかもしれないと。 

ギリシア神話パンドラの箱は、開けたとたん、この世に数多の悪が飛び出してきます。その後でおずおずと出てきたのが希望です。小学校の学芸会で「パンドラの箱」をやった時、黒い衣装の様々の悪たちが次々に箱から出た後で、最後に「希望」が真白い衣装をまとって現れます。彼女のセリフは、「あなたは誰?」との問いに答える「わたしは・・・」だけです。あの姿は今もなお胸の内に鮮やかに残ります。希望はあのように、真白に耀いているかもしれません。 

年を重ねるに従い、心が折れそうで元気が出てこない時にこそ、希望を失わないことが大切だと思うようになりました。そんな時の希望のイメージは、耀く炎ではなく、ハレー彗星を見た時の微かな明るいものなのです。今、先の見えない日々、自分のできることを諦めずに、見えるか見えないかの微かなものであっても、心の中にある希望の火を絶やすことなく、歩いて行かなければと、改めて思ったことでした。

 

それにしても、来たるべき年が、少しでもより良い、穏やかな、一年でありますように。