永遠

永遠という言葉はよく耳にしますが、永遠を時間で考えることは難しいです。永遠がどういうものか具体的に理解するのも難しいです。 

4、5歳のころ、空の向こうには何があるのだろう、と想像してみたことがありました。空の彼方に雲があって、その向こうは空間なのだろうか、その空間には終わりがあるのだろうか、終わりの果てには何があるのだろうか、と。当時の私がわかる、空の向こうの果てには高くて長い塀がありました。終わりの果てに高い高い、長い長い塀がありました、それなら、その塀の向こうには何があるのだろう、やはり高い高い、長い長い塀が…というわけで、終わりの果ての塀が幾重にも幾重にも連なり、終わりの、終わりの、終わりの果ては、私の想像の域を超えました。「永遠」という言葉は知りませんでしたが、もしかすると、それが永遠について考えた最初だったかもしれません。 

その問いはその後も折々に考えましたが、答えは見つけられませんでした。ところがです。大学生になった時、チェスタートン(Gilbert Keith Chesterton:1874-1936)のエッセイを読みました。前後は覚えていないのですが、ガラスは壊れなければ永遠にそのままあるけれども、(例えば、手から落ちて)壊れればそこですべてが終わる、という件りに峻烈な衝撃を覚えました。永遠というのは堅固で壊れるというようなことはないのだと信じ切っていたのです。永遠は壊れたり、消えてなくなったりするものではない、だから永遠なのだと思っていたのです。永遠の内にこれほどの脆さがあるなどとは考えてもいませんでした。 

永遠の愛などというものも、誓った時にはそうだったのでしょうが、成田離婚などという話をきくと、一時的なものでしかないのですね。永遠を、決して壊れないもの、なくならないもの、という視点でしか見ておりませんと、終わりの果ての果て、のように具体的なものとして理解できないことが多いです。永遠の命というのも、私のような凡人には、あちらの世のことはこちらの世では想像以上の理解はできないのです。 

でも、脆いガラスでさえ壊れなければ永遠だ、ということは具体的に理解できます。もしかしてこの世にあるものは、壊れなければ永遠というものなのかもしれません。物はいつか壊れるはずなのですね。人の心も。失われた物、動植物、遺跡等々。物だけでなく心の機微も、思いの一つ一つも。

チェスタートンの一文を読んだとき、永遠のもう一つの側面を理解しました。そして思いました。だからこそ大切にしなければいけないと。物も心も。