柿の若木

柿の葉の緑が濃くなってきました。春は過ぎ、もはや初夏になろうとしているのですね。じきに、「夏来るらし 白妙の」かなぁ、と思いました。昭和の初め頃に家を建てたころ、柿の木は12本もあったそうです。だんだん少なくなって今は二本です。庭の真ん中にあるのは渋柿で、西側にあるのが甘柿です。秋になると、生年には100個も200個も実をつけます。甘い実をつける小ぶりな甘柿と蜂谷柿です。こちらは渋柿ですが、渋抜きをしても、熟柿にしても、あるいは吊るし柿にしても絶品です。

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樹齢80年以上の蜂谷柿です。二年前、嵐の後傾きかけたので支えをしました。柿の寿命がどのくらいかはわかりませんが、元気で頑張ってほしいなと思っています。

二本の柿の木は80年以上もこの家族の毎日を見てきました。昨年家を改修することを決めたとき、甘柿の方を斬らねばならなくなりました。そこでこの柿の二代目を育てようと思いました。斬られる直前の秋に収穫した甘柿の種をいくつかヨーグルトの容器で育ててみました。駄目かなぁ、と思っていましたが、春には、なんとなんと、小さな小さな双葉をつけたのです。「早く芽を出せ、柿の種…」と念じながら見守りました。だいぶ伸びてきた時、数本を鉢に、数本を地面に移しました。夏から始まった改修の間、気になりながらも為す術なく、無事で生き延びますようにと念じつつ日が過ぎました。半年ほどして、冬に我家に戻った時、地面におろした方は雑草にまけてしまいましたが、鉢に移した方は、お箸くらいの高さの枝がまっすぐ立っていました。生きているかどうはわかりませんでした。

それから冬が過ぎ、ある暖かな春の日、浅緑のちいさな葉が出てきました。生きていたのですね。そして一日、一日、葉は大きくなり、緑が濃くなり、柔らかかった葉も少し厚みがまし、陽を受けてきらきら光るようになりました。甘柿の種からは甘柿が育つと信じていた私は、植木屋さんに「甘柿の種を育てても渋柿になるよ。」と言われて吃驚してしまいました。柿の木というのは、もともとみな渋柿なのだそうですね。甘柿にするためには挿木をするのだと。そういえばローマで売っていた柿は渋柿でした。16世紀に天正遣欧使節がローマに持って行ったのだそうです。柿は、英語では“Persimmon”と学びましたが、ローマの人は‘Kaki’と言っていました。熟柿をスプーンで掬っていただくのです。

植木屋さんの話を聞いたときは、挿木をして甘柿にしようと思っていたのです。でも、この若木を見て、挿木はやめようと思いました。二年もかけて一生懸命種から育った若木に手を加えるのはやめようと思ったのです。種から生まれでここまで育った健気さに打たれてしまったのです。このまま育てよう、一代目は甘柿、二代目は渋柿でいい、このまま時機を見て地面に移し、大きくなぁれ、と声をかけながら見守ろうと思いました。

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一昨年の冬に種を蒔いて、次の春に双葉を出して、今年の春に若木に育ってくれました。たいしたものだなぁ、と感動してしまいました。

この木が実をつけるのはいつのことでしょう。桃栗三年、柿八年といいますが。若木の行く末を想像したら楽しくなりました。頑張って大きくなろうね、と声をかけて中に入ろうと思ったら、玄関わきにひなげしが咲いていました。この花は外ではよく見ますが、家の庭で見つけたのははじめてです。わたみひなげしというのだそうです。綿のような実がつくのだそうです。

 

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たった一輪で咲いていました。たくさん群れて咲いているのも、一輪で咲いているのも風情があります。以前、清水ヶ丘公園の一画に咲き乱れていたのを思い出しました。

今年は、そろそろ春が、という時に新型コロナに襲われ、緊急事態宣言が出てからは家にいる時間が長くなりました。朝お日様と一緒に起きて、夜空が漆黒になるころに休む日々です。長閑ではありますが、思うことも多く、胸も痛みます。こちらは時の移り変わりを忘れそうですが、草木は律儀に時の法則に従って、春が来れば再生し、若葉を広げ、実をつけ、そして次の春を夢見ながら冬の眠りに入るのですね。

五月の連休明けは近づきましたが、COVID19の終息にはいたらないようです。まだまだ先が見えず、長丁場となりそうです。ここは気を取り直し、なんとか心折れることなく、長いトンネルを一歩ずつ出口に向かって進めますように、しっかりこの難事を乗り切れますようにと、柿の若木を見ながら思いました。