夾竹桃

夾竹桃が咲くたびに、『夾竹桃の花咲けば』というタイトルの小説があったなぁ、と思います。この本を読んだことがあったのか、なかったのか、内容も記憶がなく、タイトルとともに思い出すのは、ザラザラしたあまり上等ではない紙に、桃色の夾竹桃の花と女の子が描かれている絵です。女の子は銘仙の和服を着ていたような気がしますが、これも記憶があやふやです。 

夾竹桃の花咲けば』は佐藤紅緑さんの『少女倶楽部』(昭和5年7月-昭和6年6月)に連載された少女小説だそうです。国会図書館で調べると佐藤紅緑作、1948年、尚文館出版とあります。手元の古書情報では、昭和6年に少女倶楽部から、第日本雄弁会講談社から昭和6年と11年、講談社から昭和13年ポプラ社から昭和30年、33年、国書刊行会から昭和59年に出版されています。戦前に初版が出版された本だったのですね。 

どの表紙も私の記憶の絵とは違います。私の記憶にある銘仙ですが、これは、かつて、ウールに取って代わられるまでは、普段に身に着けられた和服だったと思います。桐生、足利はよい銘仙の産地で、あの織りの、ウールにはない、すべすべと優しい味わいには忘れがたいものがあります。いつのまにか目にしなくなり、今、手もとには最後の一枚が残るばかりです。もう何十年も手を通しておりません。 

銘仙の記憶と重なり、夾竹桃には遠い昭和の匂いがします。今は日光市になった今市で暮らしていたころ、夾竹桃はあちこちで見たものですが、上京してからはあまり見ることのない花になりました。西荻窪で暮らすようになったとき、家の庭に白と桃色の夾竹桃を見て、幼友達に再会したような懐かしさを覚え、同時に『夾竹桃の花咲けば』という小説のタイトルが思い出されました。50年前、夾竹桃西荻窪でも見ないことはなかったのですが、新築の家の庭で見ることは少ないようです。見事な花を咲かせていたお宅も建て替えたり、マンションになってしまったりすると、別の草木に代わってしまうことが多いです。

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桃色と白い夾竹桃の花です。こんなきれいな花にも毒があるとは…

 子供のころ、夾竹桃は日本の花だと思っていました。インド原産と知って驚きました。(見たことのない)ガンジス川の畔にも咲いているのでしょうか、お釈迦様の周りにも夾竹桃は咲いていたのかしら、と想像が膨らみました。その後、ローマやポルトガルで、夾竹桃の大きな木を見たとき、夾竹桃はインターナショナルな花だったことを改めて知りました。その時まで、桃色と白い花しか知らかったのですが、彼の地で見た花は橙、黄、薄桃色など、桃色と白のほか、それはたくさんの色があり、こんなに華やかに咲く花だったのかと改めて目を見張りました。一緒にポルトガル夾竹桃を見たアメリカ人の友人から、英語ではオリアンダー(oleander)といって毒があるから気をつけなければいけない、と教えられました。 

夾竹桃には花、茎、葉、根などほぼすべての部分に毒があるのだそうです。大変強い毒で時には死に至ることもあるそうで、取扱い要注意なのだそうです。家庭だけでなく、公園や小学校、幼稚園、保育園などの庭にも見られますので、そんなにも強い毒のあるものが、こんなにも身近なところに咲いていたのだということに驚きました。後に、夾竹桃の毒による殺人事件を扱った小説を読んで、なるほどと感心しました。 

私が折々に思い出す夾竹桃は、10年以上も前、一年ほど滞在したローマで見た夾竹桃です。当時、私はノメンターナ街道(Via Nomentana)沿いにあるコンドミニオで暮らしていました。これはローマの中心市街地、チェントロから北東に23キロほどにあるノメントゥムまで伸びている、古代ローマの街道の一つです。大学はトレビの泉から2、3分のところにあり、私の住居からはバスで15分か20分でした。ノメンターナ街道は片側3車線か4車線ある道幅の広い通りで、歩道には街路樹が、そして中央分離帯には夾竹桃の垣根が植えられていました。 

ローマのチェントロに入る道路は交通量が多く、一般自動車、2両繋ぎになっているバスの他、大変な台数のオートバイが唸りをあげて走ります。結構なスピードで走り、信号を見ていないと横断歩道を渡るのも怖いです。ただし、彼らの運転技術は頗るつきに高度で、車間が十分とれていないように見えますが、前の車寸前でピタッと止まります。概ね、歩行者が横断をするときには止まってくれます。(油断は禁物ですが。)そのような様子をバスの窓から見ながら学校に通っていたのです。中央分離帯に咲き乱れる夾竹桃の花々は、真っ青な空の下で、実に壮観でした。赤、桃色、橙色、白、黄色、色鮮やかに咲き誇る花々は生命力に溢れ、陽気で朗らかでした。 

花の形も葉も日本で見る夾竹桃と同じなのですが、この溢れる輝くような陽気さ、今にも踊りだしそうな賑やかさはなんと言ったらいいのでしょう。天衣無縫で傍若無人といってもいいほど元気のいい花々でした。毎日の行き帰りにバスの中からこの夾竹桃の垣根を見るのは楽しみでした。街道のどの辺でどの色の花が咲いているかなど、みな覚えてしまうほど馴染んでしまっていました。一度、垣根を伐採しているところを見たことがあります。この垣根がなくなってしまうのかと思っていましたが、しばらくすると元の垣根と同じように、豊かに元気のいい花々が咲き乱れました。乱暴そうなやり方でしたが、あれは手入れだったのですね。 

帰国してから後も、夾竹桃を見るたびにノメンターナ街道の夾竹桃を思い出します。我家の3、4メートルほどの高さにまで伸びた夾竹桃は頗る元気がよく、長いこと、たくさんの花をつけてくれました。3年前に突然幹が枯れ、大部分を伐採しなければならなくなりました。今は以前の半分以下になり、白い花の木ははなくなってしまいました。桃色の花の方も花数は少なくなりました。でもまだ頑張って咲いています。そろそろ、思うだけで読んだ覚えのない『夾竹桃の花咲けば』でも読んでみましょうかね。