盆のあとさき

今年も蝉が鳴いています。鳴き始めにはニイニイ蝉が鳴いていましたが、今はミンミン蝉と油蝉です。数日前から、日暮れ近くになると虫の音も聞こえてきます。ほとんどが蟋蟀と鉦叩です。上京してから青松虫という外来種の虫の音を知りました。叢ではなくて立木の枝などで鳴くのだそうです。綺麗な鳴声なのですが、鳴く音が大きく、他の虫の音が消えてしまいます。秋になると綴刺蟋蟀が「針刺せ、糸刺せ、綴刺せ」と鳴くのだそうです。(「袖刺せ、裾刺せ、綴刺せ」という言い方もあるようです。)この頃になると冬支度を始めるのだと教わりました。今年は梅雨明けが遅く、真夏の暑さも始まったばかりですから、今から冬支度という気持ちにはなれませんが、やはり季は移ろい、冬に向かって時は流れているのだなと思います。 

虫の音に誘われて心はかつての日々へと帰っていきます。夏休みになると、時間に追われず、子供心にも一日はゆっくりとのんびり過ごせました。暑くなると、色紙を水に浮かべて色水を作ったり、小さい如雨露で水遊びをしました。「植木に水をやる」とか言いながら、実は互いに水をかけあい、びっしょりになって、最後は風呂場で行水。その後のおやつは西瓜か胡瓜、あるいは甜瓜。真っ赤な西瓜に齧りついたこと、味噌をつけた胡瓜を齧ったこと。あれは真夏の味です。 

宵には近所の友達と花火をしました。大人が蝋燭で火をつけてくれると、それぞれ花火を前に突き出して、その眩さを食入るように見つめました。大きい子が花火を振り回すと光が弧を描き、なんとも美しい。すぐに大人が「危ないからダメ」と止めるのですが。花火の最後は線香花火です。パッパと、菊や松葉の形になり、最後の赤い玉がジジジと落ちる瞬間も心に残ります。近所のお姉さんに小学校の校庭の盆踊りに連れて行ってもらったこともありました。大きな輪の中にいると迷子になりそうで、心の中ではおろおろするのですが、ちゃんとお姉さんは見ていてくれて、適当な時間には小さい子供たちを連れて家に届けてくれました。大谷川の大きな花火にも一度だけ行ったことがありました。空に打ち上げられる花火の広がりと、ドーンという音がずれていたのが印象的でした。開いた花のあまりの大きさと、瞬時に代わる色の変化は忘れられないほど綺麗でした。花火は次々に打ち上げられ、空一杯に花や柳が広がる様は今も思い浮かびます。花火が打ち上げられる度に、その花火に寄付した商店の名前が放送される声にも味がありました。最後の、川幅いっぱいに広がるナイヤガラという仕掛花火は圧巻、壮観でした。これが花火かと思いました。 

お盆には茄子や胡瓜でお馬さんを作って仏壇にお供えをしました。普段は頂き物に楊枝を突き立てるなどありえないことですが、この時ばかりは特別ですから、それは楽しいです。ご先祖様が帰ってくるお迎えの用意、戻っていく時のお送りの支度、お墓参りの帰りに、お団子屋さんに寄ってお盆の時期特別の釜蓋餅という餅菓子を買います。地獄の釜の蓋が開いてご先祖様が帰ってくる、という言い習わしにちなんだ焼菓子です。お餅の表面に茗荷の葉の焼いたものが貼ってあります。今もあのお団子屋さんはあるのでしょうか。釜蓋餅もあるのでしょうか。 

お盆は日本特有の慣習だと思っていたのですが、中世英文学を学んでいる折、日本のお盆によく似た習慣がケルト民族にもあることを知りました。大昔のケルトの暦によれば、1年は11月1日に始まり、10月31日に終わります。当時の一日は宵から始まりますので、年初は10月31日の夜から始まるということになります。英語の“morrow”は、「明日の朝(tomorrow)」でもあり、「今日の朝(morning)」でもありますが、日本語も、日暮れてから朝を思えば「明日の朝」だけれども、明けてから朝を指せば「今日の朝」と聞きました。(うろ覚えですが。)この考え方は奇しくも通じるな、と感心したことでした。 

そういうわけで、ケルトの10月31日は大晦日で、その夜にはこの世とあの世の境の扉が開き、ご先祖様が子孫のところにやってきて、古くからの知恵を子孫に伝えるのだそうです。先祖の霊を迎えるために人々は、(家への帰り道がわからなくならないように)角々に灯をともし、部屋には故人の好きだった飲食物を用意しておくのだそうです。日本のお盆の迎え火や仏壇へのお供えにも似た習慣があるものだと、嬉しくも驚いたことでした。これは19世紀の初め頃まで残っていた地方があったそうです。この日についての伝説伝承、それに言及している文学作品は数多くありますが、意外と知られていないのは、これこそが、アメリカのお祭りで、現在では日本でも流行っている、ハローウィン祭の起源だということです。 

ケルト民族の場合、10月31日の夜から11月1日が年初ですから、まさに、盆と正月が一緒に…といった具合に見えます。日本でお盆にお墓参りをするのは一般的ですが、お正月に墓参りというのは、全国的な習慣にはなっていないと思います。土地によってお正月にお墓参りをする習慣のあるところもあるそうです。ですが、平安時代初期の頃には、正月にも先祖の霊が訪ねてくると信じられていたということです。和泉式部の「亡き人の 来る夜と聞けど 君もなし わが住む里や 魂(たま)無きの里[後拾遺集哀・夫木抄十八]という歌はそれを踏まえた歌だと聞きました。ケルトと日本の不思議で魅力的な邂逅だと思ったことでした。